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2017.12.25 (Mon)

湯川秀樹の研究は人類最初の核実験と関係している?

日本人初のノーベル賞受賞者、湯川秀樹の終戦期の日記が公開されたそうだ。

||||| ここから引用開始 |||||||||||||||||||||||||||||||||||

http://www.yomiuri.co.jp/science/20171221-OYT1T50140.html?from=ytop_main1

湯川秀樹

湯川博士、原爆研究裏付け…終戦期の日記公開
2017年12月21日 23時40分

 日本人初のノーベル賞受賞者、湯川秀樹博士(1907~81年)が終戦の年に書いた日記を、京都大学基礎物理学研究所(京都市左京区)が21日、発表した。

 旧海軍の要請で京都帝国大が進めていた原爆研究に関わっていたことなどが記されている。公的には自ら言及することのなかった原爆研究への関与を裏付ける記録で、当時の博士の様子を知る貴重な資料だ。

 公表されたのは、湯川博士が所長だった同研究所に残されていた「研究室日誌」など計15冊のうち、45年に書かれた3冊。親交があった小沼通二・慶応大名誉教授(86)が確認した。

 核分裂を意味する「Fission」の頭文字をとり、京都帝国大で進められていた原爆研究「F研究」に参加していたことを示す最初の記述は2月3日で「午後 三氏と会合 F研究相談」とある。さらに5月28日、「F研究決定の通知あり」、6月23日には「F研究 第一回打合せ会」などと記されている。

(ここまで405文字 / 残り387文字)
2017年12月21日 23時40分

http://www.huffingtonpost.jp/2017/12/21/yukawahideki-diary_a_23313755/

湯川秀樹博士の日記、京大が公表 「F研究」の記述も

湯川英機2

日本人初のノーベル賞を受賞した物理学者、湯川秀樹博士(1907~81)がつけていた日記のうち、太平洋戦争終戦前後の45年の内容を、京都大が21日、公表した。原爆研究に関わったことを示す記述があるほか、戦後、戦争反対や核廃絶を訴えるまでの軌跡がうかがえ、貴重な資料だと専門家は指摘する。

公表された日記には教授だった京都帝国大での講義や会議の記録、空襲被害の報道の抜き書きもある。8月15日は「朝散髪し身じまいする。正午より聖上陛下の御放送あり ポツダム宣言御受諾の已むなきことを御諭しあり。大東亜戦争は遂に終結」と記している。

湯川博士は「F研究」と呼ばれる京都帝国大での原爆研究に関わったことが知られている。日記にも「F研究相談」「F研究 打合せ会」といった記述が45年2~7月に計4回登場。本人の記述はこれを裏付けている。また、米軍が投下した原爆については「新聞等より広島の新型爆弾に関し原子爆弾の解説を求められたが断る」(8月7日)などと記している。

終戦後、「反省と沈思の日々」として沈黙を貫き、その後、核兵器廃絶や平和を訴えていく。日記にはその間に哲学者や文学者らと会っていたことなどが記されている。

解読に取り組んだ慶応大の小沼通二(みちじ)名誉教授は記者会見で「終戦直前、直後でさえ一貫して物理に取り組んでいた姿や、戦後、湯川博士が沈黙の期間に何をして誰に会ったのかが読み取れる。日本の価値観がひっくり返った時代の、日本を代表する科学者の日記の内容は貴重だ」と話した。

湯川博士の日記(研究室日記、研究室日誌など)は34~49年と54年の存在が確認され、湯川博士が初代所長を務めた京大基礎物理学研究所に遺族が寄贈。読みずらいことや専門的な内容を含むため、過去に内容が公表されたのは、ノーベル賞(49年)の受賞理由となった中間子論の研究がつづられた34年の分など一部にとどまる。(波多野陽)

     ◇

〈湯川秀樹〉 1907年東京生まれ。旧京都帝国大学(現・京都大)で学び、34年に「中間子論」を発表。49年、日本人初のノーベル賞となった物理学賞を受賞した。戦後は平和運動に力を注ぎ、55年に核兵器と戦争の廃絶を訴えたラッセル・アインシュタイン宣言に署名。パグウォッシュ会議にも参加し、核なき世界の実現を訴えた。亡くなる直前まで平和を訴え続けた。81年死去。

(朝日新聞デジタル 2017年12月21日 16時11分)

||||| ここまで引用 |||||||||||||||||||||||||||||||||||||||



さて、「ユダヤは日本に何をしたか」(渡部悌治)にて、原爆研究に係わる変死事件、湯川秀樹の疑惑に係わる指摘がある。

||||| ここから引用開始 |||||||||||||||||||||||||||||||||||

27頁
東北帝大青年助手変死事件
大東亜戦争のたけなわとなった頃のことである。山形県の新庄市近郊の沼沢の近くで、冬の日の穏やかな午後、一人の青年の凍死体が発見された。調査により、その男は道筋の茶屋に、人待ち顔に立ち寄っていたという。沼近くなったところで靴を脱ぎ、素足で数十歩進んだと思われてから、白雪の上にうつ伏せになって死んでいたのだ。左手に口の開いたままのカバンを握りしめ、カバンからは書類の肩々が周辺に散乱していたという。
その後、隣県の宮城県警のまだ若い五乃井という警部補が、当時原子爆弾の研究に関係ある仙台の金属研究所の青年助手の失踪を探索していた。この失踪者が、金属研究所内の極秘の原子爆弾関係書類を持ち出しているとみたからである。

35頁
原爆の秘密を売り渡した湯川秀樹
金属研究所の一助手が失踪した当時は、大東亜戦争もたけなわであり、研究所内に不審火や盗難事件が頻発していた。だが警察の手では、原因の調査も犯人の検挙もできないでいた。研究所の成果を狙う手法もボヤ騒ぎの利用などではなく、正面から堂々と地方名士の名を連ねてやってきたりもした。
当時は極端に食糧の不足していたときだったので、空腹をかかえては研究員たちも十分に研究もできまいという触れ込みで、東亜連盟の者たちやロータリー・クラブの会員たちが先導して、慰問団と称して大勢のスパイを繰りこませていた。
戦時中、日本で一日も早くその完成が待たれていた、マッチ箱一つの大きさで戦艦一つを鎮めうるといわれていた新兵器は、今日いう原子爆弾のことであった。そして仁科芳雄博士の研究では、実験段階では既に完成していた。

36頁
しかし、その基礎理論が完結をみないでおり、理研内では研究員たちが手分けして研究にあたっていた。それが一応のまとまりをみたとき、これを一つの学説として発表してはどうかという案も出たが、軍の機密に属することでもあり、早計に外部に漏らしてはならぬという仁科博士の違憲で発表は現金されていた。ところがそれを、当時理研にいた研究
補助員の湯川秀樹が米国に売り渡したのである。米国は終戦後、湯川の功績の論功行賞としてノーベル賞を授与させている。日本の利益にはならず、米国のためになったことで褒美がもらえたのだ。まさに国賊である。

||||| ここまで引用 |||||||||||||||||||||||||||||||||||||||


さて、人類初の核実験は、1945年7月16日だとされる。
この核実験の実施に際して、仁科博士の情報もしくは、湯川秀樹博士の知見が参考とされたのか?そうでないのか?時系列的な点から、変死事件、湯川秀樹の動きについて、検証する必要性があると考える。

||||| ここから引用開始 |||||||||||||||||||||||||||||||||||

https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%9E%E3%83%B3%E3%83%8F%E3%83%83%E3%82%BF%E3%83%B3%E8%A8%88%E7%94%BB

フランクレポート

1945年3月、連合国によりドイツが原爆を開発していない確証が得られると、ジェイムス・フランクやレオ・シラードらは、フランクレポートの提出など、対日戦での無思慮な原爆使用に反対する活動を行った。

トリニティ実験

1945年7月16日、アメリカのニューメキシコ州ソコロの南東48kmの地点にあるアラモゴード砂漠のホワイトサンズ射爆場において人類史上初の核実験「トリニティ」が実施された。爆発実験に使用された人類最初の原子爆弾はガジェットというコードネームをつけられ、爆縮レンズを用いたインプロージョン方式のテストを目的としたものだった。のちに長崎に投下された原子爆弾「ファットマン」が同様の構造をしていたが、ファットマンのように空中からの投下ではなく、鉄製のタワーの上に備え付けられた状態で爆発させた。

ファットマンおよび、広島に投下されたリトルボーイは、このガジェットと平行して製造された。

||||| ここまで引用 |||||||||||||||||||||||||||||||||||||||


ドイツが既に降伏し、日本側が終戦工作を急いでいる最中の核実験。これは、何を意味するのか?

核実験するだけの根拠データが発見されたか、何者かによって核兵器実用化の知見がアメリカにもたらされたと考え、アメリカは核実験を急いだ可能性はないのか?ということなのである。


以上

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Re: 湯川単独のノーベル物理学受賞に対する違和感

> 湯川のノーベル物理学賞受賞ですが、湯川の中間子論に関する研究は、仁科芳雄、坂田昌一との共同研究である為(湯川は中間子の論文の前半部分(理論分野)を担当、坂田は後半部分を担当、湯川と坂田の研究の指導者が仁科)、湯川が単独でノーベル物理学賞を受賞した事に関して、拭い去れない違和感を覚えますね。
>
> ちなみに日本人2人目のノーベル物理学賞受賞者、朝永振一郎博士も仁科博士の弟子ですが、朝永博士は、米国のユダヤ系物理学者のファインマン博士らとの共同受賞ですね。
>
> 米国の原爆開発に、湯川らが研究していた核物理学の理論が使用されていたかどうかまでは定かではありませんが(米国側も著名な物理学者(ファインマン等)が原爆開発に携わっている為、独自研究理論の可能性も有りますが)、仮に使用されていた場合は、「誰が」米国側に原爆資料(核物理学に関する研究資料)流出させたのか、が問われるだろうと思います。
>
> その際に、湯川の戦後の行動や発言、日記などの記録文書に関する「変遷」などは、確かにやや「不可思議」にも思える所がありますが、戦時中の湯川の動向に関して、確かに氏自身、「あまり語ろうとしていなかった」というのは事実だと思います。
>
> それが一体、どういった理由だったのか、「湯川」が自分達の研究が、そのまま完成していれば「大量殺戮兵器(原爆)」に結び付く可能性があった事から、「厭戦観」に傾倒するようになったのか、それとも、やはり「湯川」が、戦時中に「米国側」と何らかの取引をしており、それに対する「贖罪意識(我が国に対する?)」から来るものなのか、我々には知る由もありませんが、共同研究に関して、湯川単独のノーベル物理学書受賞の「不可解さ」と無関係ではない気がします。
>
> 仁科や坂田ら戦後の動向や言動を見ていても、湯川とは対照的で、湯川と同様に(物理学者として、戦争への協力(兵器開発)に関する問題で)厭戦気分を唱えていた事はありますが、「戦時中」の原爆開発に関して、「反戦」を唱えていただとか、そういった話は無かったですし、戦後、所謂「平和運動」や「反戦運動」に積極的だったというわけでもない為、湯川が彼らと対照的に、こういった「運動」に積極的になっていたのは、氏自身、何か「後ろめたい事」があったのではないか、と勘繰らざるを得ない所がありますね。
>
> 陰謀論染みた憶測論もありますが、確かに、複数の物理学者が携わった共同研究に関して、何故「湯川単独の受賞なのか」といった「謎」はありますね。

西さんの推理どおりであろうと思いますが、理系の視点で実験室データ、核実験、製造を繋げて立証した分析が少ないのが問題です。
おういう意味で、湯川博士については、自ら取引した筋と、取引の道具とされた筋があるとの仮説を立てております。
管理人 |  2017.12.26(火) 03:06 | URL |  【編集】

湯川単独のノーベル物理学受賞に対する違和感

湯川のノーベル物理学賞受賞ですが、湯川の中間子論に関する研究は、仁科芳雄、坂田昌一との共同研究である為(湯川は中間子の論文の前半部分(理論分野)を担当、坂田は後半部分を担当、湯川と坂田の研究の指導者が仁科)、湯川が単独でノーベル物理学賞を受賞した事に関して、拭い去れない違和感を覚えますね。

ちなみに日本人2人目のノーベル物理学賞受賞者、朝永振一郎博士も仁科博士の弟子ですが、朝永博士は、米国のユダヤ系物理学者のファインマン博士らとの共同受賞ですね。

米国の原爆開発に、湯川らが研究していた核物理学の理論が使用されていたかどうかまでは定かではありませんが(米国側も著名な物理学者(ファインマン等)が原爆開発に携わっている為、独自研究理論の可能性も有りますが)、仮に使用されていた場合は、「誰が」米国側に原爆資料(核物理学に関する研究資料)流出させたのか、が問われるだろうと思います。

その際に、湯川の戦後の行動や発言、日記などの記録文書に関する「変遷」などは、確かにやや「不可思議」にも思える所がありますが、戦時中の湯川の動向に関して、確かに氏自身、「あまり語ろうとしていなかった」というのは事実だと思います。

それが一体、どういった理由だったのか、「湯川」が自分達の研究が、そのまま完成していれば「大量殺戮兵器(原爆)」に結び付く可能性があった事から、「厭戦観」に傾倒するようになったのか、それとも、やはり「湯川」が、戦時中に「米国側」と何らかの取引をしており、それに対する「贖罪意識(我が国に対する?)」から来るものなのか、我々には知る由もありませんが、共同研究に関して、湯川単独のノーベル物理学書受賞の「不可解さ」と無関係ではない気がします。

仁科や坂田ら戦後の動向や言動を見ていても、湯川とは対照的で、湯川と同様に(物理学者として、戦争への協力(兵器開発)に関する問題で)厭戦気分を唱えていた事はありますが、「戦時中」の原爆開発に関して、「反戦」を唱えていただとか、そういった話は無かったですし、戦後、所謂「平和運動」や「反戦運動」に積極的だったというわけでもない為、湯川が彼らと対照的に、こういった「運動」に積極的になっていたのは、氏自身、何か「後ろめたい事」があったのではないか、と勘繰らざるを得ない所がありますね。

陰謀論染みた憶測論もありますが、確かに、複数の物理学者が携わった共同研究に関して、何故「湯川単独の受賞なのか」といった「謎」はありますね。

西 |  2017.12.26(火) 01:36 | URL |  【編集】

突然の訪問、失礼いたします。
私はこちら⇒b--n.net
でブログをやっているきみきといいます。
色々なブログをみて勉強させていただいています。
もしよろしかったら相互リンクをお願いできないでしょうか?
「やってもいいよ」という方はコメントを返してくだされば、
私もリンクさせていただきます。
よろしくお願いします^^
さくら |  2017.12.25(月) 20:41 | URL |  【編集】

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