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2019.04.16 (Tue)

ふわふわした言論人たち 

私は、条件付き政権支持派である。
桜を見る会に出演されたとされる、有名言論人について、ほとんど関心がない。


―― 参考情報 ――――――――――

安倍首相が「桜を見る会」に『虎ノ門ニュース』ご一行を堂々招待! 百田尚樹、有本香、ケントらネトウヨ文化人に囲まれご満悦
https://lite-ra.com/2019/04/post-4658.html

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少なくとも、彼らのサクラではないと思っている。



本題に入りたい。



中川八洋が西尾幹二のことをこっぴどく批判している。


―― 参考情報 ――――――――――

天皇制廃止狂の西尾幹二
http://nakagawayatsuhiro.com/?cat=10

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中川八洋の本を何冊か所蔵、読んでいる関係で、西尾幹二の「国民の歴史」や自身のブログで述べられる、論理的必然性なき、思いつくがままの文章作法、ふわふわしたモノの書き方が気になっている。それでも、着眼点の良さは認める。

西尾幹二と同年代で、ドイツ哲学専攻の学者で政治を語る言論人に、加藤尚武がいる。
「戦争倫理学」で述べられた、憲法九条解釈は、ノンポリ(政治的に中立)という立ち位置での考察である。

一読の価値がある。西尾幹二の文章作法との比較の意味においてである。

西尾幹二は、何かにつけて、自著に「保守」という言葉を用い、保守の視点から述べていると自身は主張する。これに対し、加藤尚武は、自身が保守であるかどうかについてまったく述べようとしない。そんなことよりも物事の道理として、扱っている事項についてどうあるべきか、述べている。さすが学者らしい論理展開だと思う。




これが学者のあるべき姿なのである。



これは、著書のタイトルに何かにつけて「保守」という言葉を選びたがる「中島岳志」という学者にも言えることである。

「保守」という文字にこだわるから、中身が、、、ということなのである。

それゆえ、何かにつけて、保守だから、、、とか愛国だから、、、という論理を持ち出す言論活動は、説得力に乏しいと言わざるを得ないのである。




百田尚樹の歴史書はどうだろうか?
話題となった本は、(意識して歴史書を読んだことがない)小説ファン=「信者」向けに書かれたものであろうと私はみている。でなければ数十万部も売れるはずがない。

政権ならびに桜を見る会の雰囲気に無条件で賛同される方は、私には信者に見える。

つまり、百田尚樹は、自身のファンと政権無条件支持派向けに、あの本を書いたのではないか。

出版社からの情報により、平成が終わるというタイミング、数多の歴史書を書いた渡部昇一の逝去というタイミングで、今なら通史ものの歴史書が売れると判断、小説の愛読者向けに出された、歴史書(と称する歴史書?)である。
渡部昇一が生きていたら、渡部昇一は平成を総括するという趣旨の本を出していたのではないか?
その本、私は完読していないものの、そもそも、歴史書の要件を満たしているのか、そういう視点で眺めている。(断定ではない)

百田ファンは、私の指摘に反発されるだろう。が、歴史学の本やそれなりの歴史書を一冊でも読まれた方なら、評価は一変するはずである。




最大の疑念は、参考文献を示さないことから生じる剽窃の問題である。(断定ではない)




水間政憲は、百田尚樹と名指しはしないものの、かく論評している。

||||| ここから引用開始 |||||||||||||||||||||||||||||||||||

http://mizumajyoukou.blog57.fc2.com/blog-entry-3040.html

ドイツジャーナリスト連盟会員のクライン孝子先生は、つい先日、「ドイツでは二行パクったらそいつは終わり」と、パクりに甘い日本を批判し「水間さんのパクっているやつを訴えなさい」と助言していただきましたが、最近話題になっている評論家や小説家の「歴史認識本」にはパクりが非常に多いと、オーストラリアからも連絡を受けましたので「世直しのため」にターゲットを絞り、一番突出しているやつを訴えることも視野に入れています。

本来の職種が歴史でない者が、売れれば何でもありの出版社に要請されたのであろうが、若者がまた被害者にならないように「本業」に戻ることが我が国の「国益」になるのです。

http://mizumajyoukou.blog57.fc2.com/blog-entry-3047.html

※オーストラリアの方からも小説家の歴史本に
私が発掘した資料を大量に「パクっている」と連絡があり、あらためて驚いておりますが、

||||| ここまで引用 |||||||||||||||||||||||||||||||||||||||


水間政憲は、小説家は小説家らしく、本業で歴史小説(歴史書ではない)を書けばいいと言いたいようだ。

歴史研究者と思われる(アマゾンの)書評も参考となろう。


||||| ここから引用開始 |||||||||||||||||||||||||||||||||||

https://www.amazon.co.jp/「日本国紀」の副読本-学校が教えない日本史-産経セレクト-S-13/product-reviews/4819113550/ref=cm_cr_dp_d_hist_1?ie=UTF8&filterByStar=one_star&reviewerType=all_reviews#reviews-filter-bar

分部光元

5つ星のうち1.0
自分が過去の人になったと仮定してみると… 2019年3月30日

学説は学者が唱える単なる意見ではなく、膨大な史料解釈や先行研究等を踏まえた精緻な研究活動によって形成され始めるものであり、かつ、それが形を持った論文として成立するためには数多の学者の審査にさらされてようやく認められることを要します。
そのようにしてようやっと、歴史学的批判の場に出てくることが許されるのです。
やみくもになんらの史料解釈や先行研究を踏まえずツイッターで意見を発信するような作業ではないのです。

数多の審査を経た学説とそうではない意見との違いは十分理解する必要があるでしょう。緻密な論理を経て歴史を可能な限り合理的に探求するのか、あるいは思いつきで想像力を働かせて歴史を空想するのか…歴史上の人々は我々に前者を期待するでしょうね。
数世紀後の人々が平成時代はああだこうだと史料を用いずに思いつきで論評していたら私は残念に思うでしょう…。単なる想像で歴史を語るのは先人に対して敬意ある行動と言えるのでしょうか。

||||| ここまで引用 |||||||||||||||||||||||||||||||||||||||




信者たちは、上記の、水間政憲や歴史研究者の見解が理解できているのであろうか?

小説家として一世を風靡した司馬遼太郎の場合はどうだったか?
「この国のかたち」という、歴史ネタを扱う本にて、驚くべき創作意欲と文章表現上の不正確さが、同居していた。面白い記述がたくさんある一方、文章的に不正確な箇所(論理的に正しくない文章という意味)も結構あった。
文章表現上の不正確さは、歴史書の場合致命的である。
困ったことに、司馬遼太郎の読者層の大半(団塊世代よりも年上世代)は、司馬遼太郎の歴史上の人物を扱った小説を歴史書であると勘違いしていたことを私は気がついている。



水間政憲が「若者がまた被害者にならないように」と述べたのは、正当な歴史書がどういうものであるか誤解する人が少なからずいることを暗示している。これは、西尾幹二の「国民の歴史」を初めて読んだ時に思ったことでもある。

以上

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テーマ : 私の見解 - ジャンル : 政治・経済

07:25  |  言論人  |  コメント(0)

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