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2019.02.10 (Sun)

戦後史上の重大事件は何か?

本稿は、どちらかというと、皇国史観派の視点からの歴史観について述べたもの。

私は、通史の本を何冊か所蔵している。

残念ながら、戦後史上の重大事件について、体系的かつ深く追求したものは一冊もない。

従って、このままで推移すると、今持っている通史本は、一世紀後には戦後史の部分について欠落していることになる。

たとえば、平泉澄の「少年日本史」。皇国史観派にとっては愛読書的存在だが、最終章は大東亜戦争である。ただ、西村眞悟が語る、日本のこころの真髄は、平泉澄のこの本にある。
この本に続く名著、「渡部昇一の少年日本史」は、平泉澄の同名の本を意識して書かれている。まえがき、あとがきは、何冊もの歴史書を書き上げた後に、「日本人にしか見えない、皇国史観的な歴史の虹」の存在を意識したものだ。

その、渡部昇一は、多くの歴史書にて、「マッカーサーの議会証言」について繰り返し言及した。渡部昇一はこの証言を「戦後史上の重大事件」として捉えているとみなしていいだろう。
マッカーサーはアメリカ軍人として日本軍と戦い、GHQの立場で日本占領統治した当事者として、アメリカが戦った戦争について、日本は自衛のために戦ったと結論づけ、間接的にアメリカの参戦の妥当性を否定したことになった。
最終的に、マッカーサーは解任され、大統領選挙に出馬したものの、芳しい選挙結果とはならなかった。アメリカを操る支配層にとって、マッカーサー議会証言は余計な発言だったということなのであろう。


では、この他に、「戦後史の重大事件」にふさわしいものがないか、西尾幹二の「国民の歴史」を読んでみた。が、左程意識して書かれた箇所が見当たらない。

本当に、本当に、皇国史観派にとって、戦後史上の重大事件は、「マッカーサーの議会証言」以外、他にない、のであろうか?

私は、少なくとも他に、二つあると思っている。正確に言うと、二つあると思ってきた。

平泉澄が書いた「少年日本史」は、見出しのうえでは、大東亜戦争が最後の章である。従って、「少年日本史」に続く、通史本を書くとした場合、戦後史の重大事件について記述しなければ、「少年日本史」に繋げた通史本を書いた意味がないことになる。
渡部昇一は、「マッカーサーの議会証言」を、戦後史の重大事件として認識させようと、自身の歴史書で繰返し説いた。
私は、平泉澄の「少年日本史」発刊直後に起きた、「三島由紀夫の自決」が、戦後史上の重大事件であるとみている。
当時のテレビニュース、新聞記事を通じ、「三島由紀夫の自決」は衝撃的な出来事だったと記憶している。また、多くの言論人、特に、歴史家は、この重大事件について歴史上の重大事件だったのか、そうでないのか、言及することを避けてきたように私には見える。





なぜ避けるのか?


答えは簡単である。


言論人、歴史家のほとんどが、三島由紀夫ほど現実社会において有能ではなく、三島由紀夫ほどの国家観、精神性ある執筆・言論活動ではなく、かつ三島文学の核心を理解するに至っていないからだ。

三島は多くの戯曲も出している。つまり、三島の自決直前の発言も野次も、ひょっとすると戯曲としての演技ではないかという見方もできるかもしれない。

とにもかくにも、三島の執筆・言論活動の本質を理解、分析、要約して書けない人に、現代史における「三島由紀夫の自決」の意味について書けるのであろうか。かくいう私も、三島について書くことを躊躇ってきた。もちろん、私にとって、三島由紀夫は雲の上の人である。従って、歴史観的見方として、三島の自決をどう位置づけるのか、悩んでいたのである。


いろいろ悩んでいるうちに、現代史に言及する通史本で、三島由紀夫の自決について言及した本に、ついに出会った。

書名は、「日本国史」。著者は、田中英道。三島由紀夫の自決について、こう書いてある。

||||| ここから引用開始 |||||||||||||||||||||||||||||||||||

296~297頁

三島由紀夫の死と日本人のあるべき生き方

谷崎潤一郎や川端と比べると、三島由紀夫の小説には、濃密な日本の伝統文化の社会が描かれていません。戦後は特にそうした過去が否定される時代でもありました。三島由紀夫には、自分の小説でそれに代わる新たな世界を構築することは不可能と感じられたのです。そのことが小説家をつづけられないという絶望につながったはずです。その絶望がなければ、これだけの小説家が死を選ぶはずはないのです。
もう一ついえば、戦後の天皇が、人間宣言により神としてではなく一人の人間として見られるようになったことへの失望があったと思います。天皇の神格化によって支えられていた日本がそれを失ったという絶望感が重なっていたと見ることができます。

あらゆるタイプの小説が書かれてしまって、もはや新たな世界をつくれないという小説家の絶望感は、過去の多くの小説を知る知性的な三島には、切実な問題であったはずです。芸術の形式の成熟と没落は、すべての芸術に共通します。ですから、三島がもう小説の時代ではないと自覚したことは正しかったと思います。その根底には、日本の伝統と文化が失われてしまったという嘆きがあったでしょう。伝統と文化が新しい状況に対応して常に変わっていくということに期待をもてなかったのでしょう。


||||| ここまで引用 |||||||||||||||||||||||||||||||||||||||

一見、何気ない書きぶりである。
有能な小説家と無能な小説家がいたとして、有能な小説家は(東大、国家公務員試験に合格したことを指す)、すべてが見える。が、有能さゆえに真剣に悩み、絶望し、失望、実行した。それが三島由紀夫ではなかったか。

田中英道は、この本にて、三島の自決を戦後史上の重大事件とは言い切ってはいない。が、書いてある箇所は、300頁ほどの本の最後の数頁前である。
つまり、著者は、戦後史上の重大事件だとことわってはいないものの、「三島の自決」を重大事件と認識した前提で、「三島由紀夫の死と日本人のあるべき生き方」と題する、三島の自決についての著者の総括的見解を示し、最終章「われわれは自分の言葉を取り戻さなければならない」を最後のまとめとした、と解することができる。

ちなみに、書名の副題は、「世界最古の国の新しい物語」。

平泉澄、渡部昇一が書かなかった、後の時代の領域にて、「三島由紀夫の自決」という「新しい物語」を田中英道は、そっと目立たぬように、付記したのである。


それゆえ、現時点で、皇国史観派が所蔵すべき通史本は、①平泉澄の「少年日本史」、②マッカーサーの議会証言を重大事件として扱った「渡部昇一の少年日本史」、③三島由紀夫の自決を重大事件として追加した、田中英道の「日本国史 世界最古の国の新しい物語」となるべきと考えるのである。

なお、本稿で言及していない、三つ目の戦後史上の重大事件は、現政権下にて進行中の事案と考えていいだろう。一言で言うと「戦後レジームからの脱却」である。

以上

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テーマ : 歴史認識 - ジャンル : 政治・経済

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