FC2ブログ
2017年12月 / 11月≪ 12345678910111213141516171819202122232425262728293031≫01月

2017.12.20 (Wed)

NHK  タレント出演を減らし経費削減すべきだ

職員給与を引き下げないNHKに対し、次なる経費削減要求が出ている。
読売の読者投稿欄にて、NHKの(必然性のない)タレント出演番組が多すぎるとの指摘が2件ある。

12月6日 読売
読売読者投稿20171206文字修正  


12月20日読売
読売読者投稿20171220文字修正

NHKがこれを無視するなら、番組単位で、制作費を情報公開させるべきであろう。

スポンサーサイト



テーマ : 報道・マスコミ - ジャンル : 政治・経済

19:28  |  マスコミ  |  トラックバック(0)  |  コメント(2)

2017.12.20 (Wed)

数学を学んだ文系学者が増えれば文系学問は進化するのか?

戦後の文系学問。
劣化、退化する一方でろうと私はみている。
特に、問題なのが、歴史学、憲法学である。哲学もそうみていいだろう。

拙ブログコメント常連の西さんは、こう述べられている。

||||| ここから引用開始 |||||||||||||||||||||||||||||||||||


「数学」を避ける文系学者は無能

確かに、理系にも「左翼系学者」は僅かながらいましたが、しかし、名のある学者を多く調べてみても、左翼系の学者の多くは「文系」である事に気付かされることと思います。

しかも、何故か所謂「有名大学」を出ている者であったとしても、文系学者の場合は、「情緒的」であったり、そうでなくとも、左翼系学者に多く見られる「横文字」や「いかにも難解な理屈っぽい(実際には中身は無い)表現」を振り回す傾向があり、少なくとも理系の場合は、有名人であったとしても、そこまで「難解な表現技法」を好むという事は無かったと思います(アインシュタインなども述べていますが、物理学の公式などは、一般的には難解な理論ですら、その数式によって簡潔に表現されることが多い事からも分かると思います。数学も実は似ている所が多いですね(オイラーの式など))。

逆に言えば、徒に難解な表現を多用したがるという事は、「自身の哲学的素地」のような者が弱く、そういった表現を用いる事で、半ばインテリな若者や「無知な大衆」を煙に巻き、怪しげな結論に誘導し、破滅させようとしているのではないか、と勘ぐらざるを得ません。

保守思想などは、確かに「難解」であると言っても、その概念自体は、意外と「すっと」受け入れる事ができるものが多いと思います。特別に難しい表現を用いる必要も無く、互いに「了承できる」何かがあるわけです。

ところで、多くの文系は「数学」を苦手とする者が多いと言われています。しかし、そもそも「数学」は、「哲学」から派生した学問である為(論理を最も大切にする学問である為)、「数学」を取得せず、その「哲学思想」が理解できるという事は有り得ない事だと思います(実際、多くの数学者は、著名な哲学者でもあります)。

という事は、多くの学問は、理系文系関係なく「数学(論理学)」を取得していなければ、理解できないはずなのです。

現在の文系学者の中で「数学(論理学)」に強かった者が何人いるのか気になるところです。
恐らく、思ったほどいないのではないかと思います(理系でも苦手な者もいますが(生物系に多い)、それなりに時間を割いて勉強する為、多くの文系ほど苦手ではないと思います)。

文系で言えば、数学を取得しなければ理解できない学部は、「経済学(本来、理系の学問ですが、便宜上文系に分類しています)≧法学≫≫≫文学(数学を取得した哲学科は除く))」と考えて良いと思います。

実際、大学進学者の文理の割合を調べてみると、文系が約6~7割に対し、理系が3~4割と、「理系」の方が圧倒的に少ない。また、そもそも、数学を敬遠している者は、文系かつ、数学色が弱い「文学部(哲学科以外)」に進学する傾向が強いのではないかと思います(ただ、哲学科といっても、数学に弱い者も多い)。

こういった「数学」をきちんと取得していない者に学問ができると思えないのですが、文系学者や文系出身の有名人の多くが「非論理的」で「情緒的」に感じるのも、そういった「数学嫌い」が後押ししているのではないかと思います(実際、メディア出演者の大半が文系である事からも分かる通りです)。

そもそも、西欧人の文系は、「数学」を取得しているんのが普通で、弁護士や文学者、作家の中には「医学」や「物理学」などの、本格的な「理系」の出身者も多くいます(米国の大政治家ベンジャミン・フランクリンは物理学者、ドイツ文学の大家ゲーテは自然哲学者、フランスの数学者のフェルマーの本業は弁護士(法学者)などです)。

西欧人の文系優秀層のほとんどが「数学」を取得するのが「必然」であるにもかかわらず、主に西欧の学問を取り入れてきた我が国では、「文系進学者」が「数学」を「敬遠」している時点で、「学問の取得」など不可能ですし、ましてや、「数学」を避けて優秀にはなり得ず、三流以下になるのは当たり前ではないかと思います。

「数学」は避ける学問では無く、どの学部学科に進学するにしても確実に取得する必要があります(数学を入試で課さない私大文系は論外です)。

こういった観点から、我が国の文系進学者、大学の文系教官等の数学取得度合を調べてみると、その「優秀さ」が分かると思います。

西 |  2017.12.15(金) 00:57 | URL | 

||||| ここまで引用 |||||||||||||||||||||||||||||||||||||||

数学者というと、藤原正彦の「国家の品格」という本があった。

私も、この本は読んでいた。が、よくわからない本になった。藤原正彦が「論理よりも情緒」を重んじることが気になっている。
肝心な部分になると、藤原正彦は、論理ではなく「情緒」で結論づける、と書いている。

まだ、「やまとごころとは何か」などで示す、田中英道の論理の方が、論理の筋が通っている。

つまり、数学者だから100%論理的かと言うとそうではなく、文系学者だから100%非論理的かというとそうでもないようだ、と言いたいのである。

そして、藤原正彦が述べる日本論が、一般の数学者が導く数学の解とは異なる「直観かつ情緒的な」言い廻しであることについて、私は戸惑っている。

そこで、文系学者にとって、「数学の素養は、ゼロでは拙いのであるが、必ずしも絶対ではないのではないか?」という仮説を立てたい。

では、代わりにどんな学問があるのか?

「分類学」である。学問化した状態とは言い切れないが、それなりの良書は存在する。

・分類という思想 (新潮選書) 池田清彦
・分類学からの出発―プラトンからコンピュータへ (中公新書) 吉田政幸
・本を分類する 緑川信之

なぜ、「分類」という思考と作業にこだわるのか?
分類作業は、雑多な状態で存在する情報を集め、分析、評価作業を下す際に、避けて通れない。論理的に考え、論理的シナリオを以て事象を評価しようとすればするほど、「分類」を軽んじることはできない。
分類しない人に、「当該事象に係わる論理」を見出すことは難しい。
論理は、当該事象を特定(分類、体系化)できているから見出される性格のものではないか、と言いたいのである。



対極的な主張に、「超整理法」、「超勉強法」などのベストセラー作家で経済学者の野口悠紀雄がいる。野口悠紀雄の分類に対する考え方は、ひと言で言うと「パソコンで検索できる状態であれば、詳細分類する必要はない」みたいな主張だったと記憶する。

実は、私は、分類に係わる「実務経験」を中学時代に既にしている。中学に図書館の司書がおらず、委員だった自分(生徒)が、日本の図書館で適用されている「日本十進分類法」に沿って、中学の購入本数百冊近く、分類後、台帳記入・図書ラベル作成作成保管した。そういう作業を2年間やったのである。
中学校は、本を多数購入するために、司書をやめさせ(あるいは司書が寿退職?)、浮いたお金で本を購入、私に司書みたいなことをやらせたと解釈いただきたい。

私がイメージする、分類とは書誌学の世界に近いのかもしれないが、本を分類もせず、放置することはしない主義である。野口悠紀雄の分類に対する発想は、「実務的には受け入れられない」とのスタンスである。



国立国会図書館で販売していた本の中に書誌学に係わるものがあり、趣味的な動機で数冊購入、読んだこともある。
書誌学について、文系学者がどこまで認識を以て取り組んでいるのか、その実態までは知らない。が、文系学者たちの政治的主張が、左程論理的でないのは、野口悠紀雄のように分類について左程重要性を認めていないことが影響しているのではないか?

||||| ここから引用開始 |||||||||||||||||||||||||||||||||||

http://sokokuwanihon.blog.fc2.com/blog-entry-786.html#commenttop

歴史学者が苦手な「論証」

歴史学者は、「論証」が苦手なのか、自身の願望が事実と矛盾していると、よく分からない事柄をこじつけのように結び付けて、煙に巻こうとする習性が強いと思いますね。

「物証」が存在していても、「事実」として認めなかったり、どこかで聞きかじった程度(もしくは噂で広められた程度)の都合の良い「物語」を「歴史事実」として認定したり、特定集団に都合の悪い事実(特に共産党関連の事件)を「歴史事実」として認めなかったり、事件を矮小化または誇張するなど、不正は枚挙に暇が無いのですが、こういった観点から攻め込めば、歴史学者や学会などは太刀打ちができないのではないかと思います。

実際、調べてみると、工作員の可能性を強く疑わざるを得ない人物がかなり多くいると思うのですが、歴史学会などは見て見ぬふりをしていますね。

不正手段による採択に加え、リベートを受け取っていた可能性がある人物などは、こういった「歴史教科書の執筆、採択」に関与させるべきではないと思いますね。

「強制連行」などの用語については、確かに「業者」による「犯罪」はあったが取り締まられていた事、「強制連行」それ自体は、戦後の「造語」であり、「娼婦」の存在などは、当時の法律上何ら問題無いもので、主観的な「言いがかり」に類であると喝破すれば、ここまで問題が大きくなかったと思いますね。

||||| ここまで引用 |||||||||||||||||||||||||||||||||||||||


私なりの知識と体験を総動員すると、学術研究的に、分類を疎かにする文系学者の研究は、多分に論理的でないのではないか?と考えるのである。



視点を変えたい。

拙ブログにて、中川八洋と西尾幹二を比較した原稿を参照したい。

―― 参考情報 ――――――――――

「政治学・哲学」関係の大学教官・教科書執筆者・教科書検定官を総入れ替えしなくていいのか
http://sokokuwanihon.blog.fc2.com/blog-entry-781.html

―――――――――――――――――

その中で、二人の学者を比較する際の指標として、学術的・体系的・論理的評価があることを指摘した。


ここで、若干の定義を示しておきたい。

━━━━━━━━━━━━━━━━━━━

・学術的とは、過去の学術研究的に価値ある分析を参照していること
・体系的とは、過去の学術研究をバラバラではなく、系譜的に押さえていること
・論理的とは、直観でも情緒でもない、同じ素材を示されたら、同じ結論に至るであろう、客観的な(論理)シナリオが示されていること

━━━━━━━━━━━━━━━━━━━

私の判定では、中川八洋は西尾幹二よりも、より論理的・体系的・論理的という評価である。

が、紀伊国屋書店に行くと、中川八洋の本のほとんどは絶版。ほとんど見かけない。対して、西尾幹二の本は、全集ものも含めて揃っている。私からみて、全集にする価値があるのは、中川八洋の著作の方であるべきだが、出版ビジネス的にはそうはならないようだ。



ここで、文系学者に二つの問題パターンがあると認識しなくてはならない。

数学と係わることを避け、分類学や書誌学を疎かにしたがる、文系学者
学術的でもなく体系的でもなく論理的でもない、文系学者

戦後の文系学問は、本当に社会とって有用な研究なのであろうか?

文系学者たちの研究は、果たして研究と言える次元のものなのであろうか、そういう仮説を立てざるをえないほど、彼らは総じて劣化している可能性はないのか?

疑問は深まるばかりである。

以上

テーマ : 教育問題 - ジャンル : 政治・経済

04:27  |  政府機関  |  トラックバック(0)  |  コメント(9)
 | HOME |