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2017.12.05 (Tue)

総論と各論の違い  政策を確実に実現するために

本稿では、言論人たちに決定的に不足していることについて指摘させていただく。
総論では十分語り尽くされていることで、目の前で実行に移さなければならない状況が続いていて、各論を表明、実行する前提での話として述べたい。

ケースとしては、朝日新聞廃刊、朝鮮総連解体・追放、NHK解体・分社化等をイメージしている。


本題に入りたい。

本稿にて書いていることは
実務に即して考え、対応していればわかることである。
実務とは、この場合は、極端に言うと、課せられた責務、当事者として逃れられない責務のことを指す。

世の中には、割りに会わない職種が存在する。
来る日も来る日も、苦情処理、8●3対応している職種の人もいる。
8●3対応とは、8●3の事務所に行って料金収受する業務のことである。

彼らは、職種的に、それを与えられた仕事と捉え
使うべき言葉、使ってはならない言葉をきちんと区別し
組織として対応している。
電話代、電気代、水道代、固定資産税等を集金する人たちは、そういう苦労をしている。

私の場合は、来る日も来る日も再発防止対策の文書を作成、官庁対応する期間が長く続いた。実質的に同じ対応でも、文章化して区別してもっともらしく見せることがすべてだった。役人もわかっていて対応していた。

従って、各論で書くことに何の抵抗もない。
それが仕事だったからだ。

見方を変えたい。
学者世界では、「学問の自由」という概念が存在する。
それは、穿った見方をすれば、面倒くさいこと、やっかいなことは避けて通っても許されるという、学者世界だけで通用する、一種の特権みたいなものである。

大学教官たちの講演を聞いて、話ぶりからともすれば幼稚な雰囲気が漂うのは、仕事上避けて通れない厳しさを体験したことがないことから来るものであろうと私は解している。

言論人も同様である。対応を求められても、専門でないと言えば逃げられる。得意技以外で勝負しなくて済むのである。
民間人は違う。やりたくない仕事もやらされるのである。
専門外であってもその仕事が降って来るのである。
民間人の場合は、やりたくない仕事が大部分なのである。

従って、私からみて、大学の教官や言論人たちは、体験的にお気楽な存在に見えるのである。

誰とは書かないが、保守系言論人たちの経歴、学歴を眺めてがっかりすることがある。
しかるべき経歴のをお持ちの学者の中には、意味不明な論理、根拠不明な自説を書き綴る、高名な学者の方もおられる。中川八洋は、そういう中途半端なレベルの学者について、学術的な手法を駆使してこき下ろしていた。
また、言論人たちは総じて、実務経験なき方ばかりである。研究職は実務ではないということである。
中には、大学すらまともに卒業しない方もおられる。

私は学生時代は勉強した方だ。渡部昇一の大学時代ほどではないが、図書館では読書に耽り、単位は学科の大半の教官に褒められるほど取得した。
面倒くさい仕事、嫌な仕事もやったしやらされた。普通の人の二倍のスピードで処理したと自分は思っている。そのうえで書いている。

ここで言う、実務経験とは、その領域における実務として、総論、各論に相当する、企画書、計画書、手順書全般に精通していることを指す。

しかし、言論界を見渡すと、総じて総論の次元で語っているに過ぎないことなのに、仕事をした気になっている方が余りに多い。

これを、企画書、計画書、手順書に置き換え、「総論、各論をどう区別するのか」という視点で考えてみたい。

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・企画書とは、経緯的なことをおさえた上で、活動目的と成果目標、取り得る戦略・戦術など、問題提起と戦略全般に相当するもの。
・計画書は、長期計画書と年次計画書がある。長期計画書は戦略的に意味を持つ活動計画、年次計画書は戦術的に意味を持つ活動実施計画で構成されるべきもの
・手順書は、街宣に係わる手続き書類全般、陳情書、連絡書、抗議文書、街宣原稿、シュプレヒコール原稿などで構成される

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私の解釈となるが、上記の分類(企画書、計画書、手順書)に当てはめると、手順書は100%各論。計画書は長期計画書の一部が総論となる以外はほとんどが各論。企画書は、目的と目標くらいが総論、それ以外は各論に分類されるという認識である。

従って、言論人による、新聞・雑誌寄稿記事の大部分は、総論であり、各論の領域に入り込んでいないと解している。
言論人は提言したというだろう。が、私の解釈では、実行段階のレベルのことにまったく踏み込んでいないのだ。

言論人はこの現場感覚的な意味での、総論、各論の区別がついているとは思えないのである。

その点において、言論人の存在、それは「問題発掘もしくは問題提起段階での断片的情報発信者」に過ぎない、と私は見るのである。

よって、政策なり措置なりを確実に実現したければ、「総論だけでなく、各論も精緻に文章化すべきである!」という結論に達するのである。

以上

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