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2017.11.17 (Fri)

同じ情報でも人によって見解が変わる可能性はないのか?

最近、西尾幹二の「GHQ焚書図書開封11 維新の源流としての水戸学」を読んでいる。



ひと言で言うと、読書案内本であり、西尾幹二ならではの、着眼点の紹介がある。
内容的には、読書案内本として、そして着眼点の紹介という視点から読むと、優れた本の部類に入るだろう。
水戸学に関するわかりやすい本が少ない中、この本の存在は貴重である。

しかし、一方で、この著者固有の癖について、著者自身、気づいていない気がする。
一つは、著書の中で敢えて書かずとも済む、言い換えると、本筋から外れる箇所が多いことである。
もう一つは、たとえば、三つの情報A、B、Cが、本書の中で紹介され、その情報から導かれる見解Dがあったとして、著者が述べる評価というか結論に、論理的飛躍があり、数式的に「A+B+C ⇒ D」と断定するには、論理的に無理がある文章が目立つような気がする。

つまり、Dだとする評価を述べ結論を断定する前に、なぜそう解釈したのか、一文が欠けているケースが多い気がするのである。「根拠を示さずに断定する」ケースと「解釈に至る論理展開を示さずに断定する」ケースがあるような気がする。



中川八洋は、かく西尾幹二を批判し続けている。

―― 参考情報 ――――――――――

西尾幹二の妄言狂史
http://nakagawayatsuhiro.hatenablog.com/archive/category/%E8%A5%BF%E5%B0%BE%E5%B9%B9%E4%BA%8C%E3%81%AE%E5%A6%84%E8%A8%80%E7%8B%82%E5%8F%B2

―――――――――――――――――

中川八洋の批判は人格否定、いや全否定に近い。
それでも少しくらい、良さは認めるべきだと思う。
が、中川八洋が「妄言」という言葉を使っている意味に着目したい。
理系出身の言論人ゆえ、「根拠がはっきりしない見解」、あるいは、「言葉足らずで説明不足の見解」について、中川八洋は「妄言」という言葉で表現したこのであろう。

具体的に書くとこうなる。

仮に、三つの情報A、B、Cが存在
三つの情報から導かれる評価がDだとして
A、B、Cの情報から、いきなりDだという評価となるという表現手法を多用しているのが西尾幹二であると、この本の内容から私は判断している。

少なくとも「A、B、C三つの情報から、EないしFであると思われ、評価としてはDとなる。」西尾幹二は、いきなりDと言わず、間に一文入れて書くことを習慣化すべきではなかったか?



中川八洋の批判記事を全部理解した訳ではないが、冒頭で紹介した本は、水戸学の全体の流れをおさえており、水戸学の読書案内としては、滅多にない入門書である。
が、著者が評価し、判断を下す箇所については、なぜそういう結論に至るのか、保留すべきだ、それが、読んだ感想である。

良い本は良い本である。
しかし、そうだからと言って100%満足できる本はない。
良い本の良い部分は認め、そうでない部分と区別する。
読書する際に必要な基本的作法であろうと私は考える。

水戸学関係の本、もっと読まれるべき内容であると考えている関係で、言論人の皆様におかれては、是非水戸学の入門書の出版化について、ご検討をお願いするところである。

以上
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テーマ : 保守主義 - ジャンル : 政治・経済

12:29  |  言論人  |  トラックバック(0)  |  コメント(0)
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