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2019.05.25 (Sat)

地位、名誉、カネにこだわない生き方

かつて、「一杯のかけそば」、「木を植えた人」、などの寓話に近い?創作本が飛ぶように売れた時代があった。一方で、誰も知らないところで、一人植林ボランテイアする人、一人街路花壇の草むしりをする人を見かけることは、まずない。それが現実社会である。



さて、感動ものの話、秘話とされているものには、パクリ疑惑がつきまとう、というジンクスがある。

赤穂浪士の討ち入りについて、多くの人が、感動する。私も感動した。
赤穂浪士のテレビドラマのシナリオに関して、専門家に言わせると、後世の創作があちらこちらにあるそうだ。つまり、主君のための仇討ちに至る過程、冷静に眺めると、すべてが感動ものの世界ではないということになる。

ではそれでもなぜ、仇討ちが決行されるのか?ということになる。
主君のためなら、自身の地位、名誉、カネは潔く捨て去ることができる武士が集団として存在していたから実現できたこととなる。
その主君の生き様、実態はどうだったか?磯田道史の本にさりげなく書かれている。現代的価値判断で捉えると、仇討ちするにふさわしい主君の普段の振る舞いであったか否か、ということである。どうも人物的には違う?ようだ。

それでも彼らは、地位、名誉、カネを潔く捨て決行した。
何のために、ということになる。



我々が知る、感動ものの秘話には、(創作を好む)作者にとっては「読者に知られては困る、不都合な事実」が存在しているとうことになる。



さて、感動ものの小説を得意とする、山崎豊子という小説家にはパクリ疑惑が何度も発生している。

https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%B1%B1%E5%B4%8E%E8%B1%8A%E5%AD%90

テレビドラマの「大地の子」もパクリ疑惑があった。つまり、オリジナルネタはどうだったのかということになる。山崎豊子の場合は裁判では逃げ切った。つまり、うまくやったということ。

これは、オリジナルで小説を書いたのではなく、読者に感動させるべく、創作した結果である。



創作には、「完全オリジナル」と「オリジナルのリライト」という二つの要素がある。



現実には、感動ものの小説を書いた本は飛ぶように売れる。その販売実績に味をしめ歴史書を書けば、別に読まれるべき重要な歴史書があるのに、はるかそれ以上に売れる。読者層において、劣化本を読まされているという認識はない。(ようだ)

ここで考えておきたいことがある。

当代きっての小説家であり、愛国者と言われた、三島由紀夫は、進んで感動ものの小説を書いたのであろうか?
違うような気がする。少なくとも、感動ネタに飢える、読者のための小説は書いていないはずである。

三島由紀夫が描いた世界、私はすべて読んではいない。が、芸術性は確かにあった。川端康成もしかり。
小説に求められるのは、感動であろうか、それとも芸術性であろうか?私は、芸術として表現したいものがあり、感動はあくまで二次的なものと考える。(私見)

文学は、そもそも人を感動させるために存在しているのか、ということなのである。それは、他の芸術についても当てはまる。
感動を最優先させる小説家は、芸術家としての小説家ではないのではないか、という見方が浮上する。

少なくとも、読者に感動させることよりももっと重要なことについて、愛国的小説家の使命として、三島由紀夫は認識していたと私は考える。

その三島由紀夫が自決した。
自決したということは、地位も、名誉も、カネ以上の存在のためと、普通の保守層なら考える。
三島は、後に続く、愛国小説家(愛国と称する場合を含め)に対し、(突き詰めて考えれば考えるほと、直面するであろう)命題を遺して自決したのである!

従って、後に続く愛国小説家(愛国と称する場合を含め)が歴史書を出した場合、小説家として同業である関係で、三島の自決について述べないのは、(三島の視点からみて)一種の義務違反?となるとの見方が浮上する。

皆様が最近買われた歴史書において、三島由紀夫の自決が述べられているか否か、ご確認いただきたい。三島由紀夫の自決について述べている歴史書を書いた歴史家は、地位も名誉もカネにこだわらない、ホンモノの愛国者である。(私見)



田中英道の「日本国史」にはこう書いてある。

||||| ここから引用開始 |||||||||||||||||||||||||||||||||||

296~297頁

三島由紀夫の死と日本人のあるべき生き方

谷崎潤一郎や川端と比べると、三島由紀夫の小説には、濃密な日本の伝統文化の社会が描かれていません。戦後は特にそうした過去が否定される時代でもありました。三島由紀夫には、自分の小説でそれに代わる新たな世界を構築することは不可能と感じられたのです。そのことが小説家をつづけられないという絶望につながったはずです。その絶望がなければ、これだけの小説家が死を選ぶはずはないのです。
もう一ついえば、戦後の天皇が、人間宣言により神としてではなく一人の人間として見られるようになったことへの失望があったと思います。天皇の神格化によって支えられていた日本がそれを失ったという絶望感が重なっていたと見ることができます。

あらゆるタイプの小説が書かれてしまって、もはや新たな世界をつくれないという小説家の絶望感は、過去の多くの小説を知る知性的な三島には、切実な問題であったはずです。芸術の形式の成熟と没落は、すべての芸術に共通します。ですから、三島がもう小説の時代ではないと自覚したことは正しかったと思います。その根底には、日本の伝統と文化が失われてしまったという嘆きがあったでしょう。伝統と文化が新しい状況に対応して常に変わっていくということに期待をもてなかったのでしょう。

||||| ここまで引用 |||||||||||||||||||||||||||||||||||||||


これは、地位、名誉、カネを潔く捨てた、愛国小説家に関する歴史的評価である。

愛国的小説家の場合はかように深刻なのである。田中英道は、同時に、小説の世界において最も重要なものは、「感動」ではないことを暗示している。
愛国(と称する)小説家が、もし歴史書を書き、戦後史の頁において、三島の小説、三島の自決について論評しなかった場合、何を意味するか?ということになる。(私は、該当するすべての本のすべての頁において、三島由紀夫についての記述かあるか否かについてチェックするほど暇ではない)



一言で言うと、地位、名誉、カネにこだわる、愛国を演じるビジネスマンということになるだろう。



ここで、自決された沼山光洋氏の遺書を一読しておきたい。

―― 参考情報 ――――――――――

超拡散宜しく《令和元年5月11日、靖國神社前の路上で最期を遂げられた沼山光洋さんの死を「遺書」と受けとめ、心よりご冥福を御祈り致します》
http://mizumajyoukou.blog57.fc2.com/blog-entry-3090.html

―――――――――――――――――

水間政憲が同志から入手したものであろうと推測する。こんなことを書くと怒られるかもしれないが、遺書は淡々とした書きぶりである。
文面から察するに、沼山光洋氏は、普段から、地位、名誉、カネにこだわらない生き方をされたようである。また、普段から、その覚悟があった方であろう。遺書を一早く公開した水間政憲は、過去の活動歴などから(南京虐殺、慰安婦問題、日本軍遺棄化学兵器、長野聖火リレー、売国法案反対活動等)、詳細は語らず「覚悟」ある活動をしてきたことを改めて知った。



「覚悟」という点では、三浦綾子という小説家が書いた「塩狩峠」にて、鉄道員として殉職された長野氏も、普段から「覚悟」ある行動を意識しされた方だったとされる。

感動ものの秘話の有名な小説としては、「ビルマの竪琴」があげられる。小説家は実話ではなく創作だとしたそうだ。一人のモデルが実在しているとの話を聞いたことがある。私は、モデルは一人だけでなく何人か実在、かく実践、その地で生涯を終えたのではないかと推測する。この小説のモデルと同年代の陸軍関係者で、敗戦後ラマ僧となって身を隠し帰国された方が身近におられたことを知っているからだ。地位、名誉、カネにこだわらない人なら、小説に書かれた通り実践していたかもしれない。



小説家だから、(売れるからという理由で)職業的に感動ものの小説を書けばいいということではない。愛国小説家であればあるほど、本来的に、三島由紀夫の後継者として、三島由紀夫が悩んだ次元、絶望したことを共有する意識があってしかるべきだ。

真摯に保守を語る小説家なら、あれほど有能な(東大合格、国家公務員試験上級合格、たくさんの小説・戯曲・エッセイを刊行、小説家としてノーベル賞候補者)三島由紀夫が絶望した意味を理解できない、はずはないのである。



それでも、感動ものの秘話小説に飢えておられる方に申しあげたい。そういう類のフィクションは、自分で創作するに限る。これは書いた人でなければわからない。知人が私の文章を読んで感動したこともあった。

創作としての、真摯な感動は、書いた人の心の世界だけに宿るべきもの、ということである。
少なくとも、カネで買える、安っぽいものではないはずである。「感動」それ自体が、お金で買えない(プライスレスな)存在であるべきなのだ、言いたいのである。



以上
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08:23  |  言論人  |  コメント(0)

2019.05.15 (Wed)

主体的に考えるということ(信者になってはいけない!)

注意:本稿は、どの箇所のどの部分がパクリであるのか?その点を確認せず、パクられた被害者の弁を信用する前提で書いております。



保守言論界においては、信者を確保し、本やメルマガ、講演などで荒稼ぎする手法が大流行しているようだ。

―― 参考情報 ――――――――――

超拡散宜しく《信者商法一掃月間:「デマ注意」男が「デマ」から資料をパクる厚顔無恥》
http://mizumajyoukou.blog57.fc2.com/blog-entry-3076.html

盗用を恥じない倉山満氏には「巧言令色鮮なし仁」を……
http://mizumajyoukou.blog57.fc2.com/blog-entry-3081.html

―――――――――――――――――

拙ブログのように、都度出典を明記するのは、出版界では少数派のようだ。
ただし、デマの定義が、双方において異なる可能性はある。倉山満については、(内容はまともであっても)異常な頻度で出版していること、有能なゴーストライターが書いていそうなこと?については疑ってみる必要はある。



同様のことは、あの櫻井よしこにも当てはまる。

―― 参考情報 ――――――――――

クライン孝子氏、ついに追及~ジャーナリストにゴーストライターはいかがなものか!!被害を受けたことも。
https://blog.goo.ne.jp/bellavoce3594/e/2ad38266b6f646523786528cfae994fe

櫻井よしこ氏の目に余る「媚態という醜態」Add Star
http://d.hatena.ne.jp/eschborn/20151105/1446728023

―――――――――――――――――

櫻井よしこの文章は、流麗で読みやすい文章である。ただし、評価できる点は文章力のみ。論理性と突破力に欠け、斬新な提案がない。要するにネタ的には、目新しいものはない。(私見)



青山繁晴議員についてはどうだったか?実は、拙ブログは青山繁晴という言論人について、無関心派であった。

―― 参考情報 ――――――――――

超拡散宜しく《青山繁晴議員にまだ期待している方たち大丈夫ですか》
http://mizumajyoukou.blog57.fc2.com/blog-entry-3069.html

―――――――――――――――――

動画などで語る言論活動中心で、論理性に乏しい言論、証拠能力等今一つといった印象があった。
青山繁晴の信者ブロガーは居場所がなくなったはずである。



言論人が独裁的に主宰する、講演活動、塾とは、所詮、信者相手の組織づくりのためのものとどうして考えないのか?

彼ら塾長たちは、塾長と名乗るほどの、オールマイテイかつ絶対的存在なのか?

当該分野に係わる、すべてを分析し、すべての対策を示し、国家戦略について提言する、プロフェッシャナルレベルの能力を有する存在なのか?



信者たちは、なぜ彼らの相当数が、タレント化したあの教育評論家とさして変わりがないとどうして考えないのか?
信者たちは、情報だけでなく、物事の判断までも(パクリを得意とする塾長に?)依存する状態にある。それは信者たちが、独自の情報源を持たず、自ら調べようとせず、主体的に判断しようとしないことから来る。自分ですべてやれば、見方は変わるのだ。

質問対応について言うと、普通の言論人は、講演会にて、質問さえ受け付けない。が、兵頭二十八は講演で、すべての質問に真摯に回答する。

歴史書を数十万部売った、あの小説家は、修正箇所を個別に説明しないことを、アマゾン書評欄等で知った。
これと比較すると、初版本の誤記を販売開始と同時に公表した、兵頭二十八は良心的である。

―― 参考情報 ――――――――――

昨日書店売りが始まった『日韓戦争を自衛隊はどう戦うか』の初版の誤記について。
http://sorceress.raindrop.jp/blog/2019/04/#002297

―――――――――――――――――

問題を俯瞰すると、保守言論人の主宰する講演や塾とは、パクリや剽窃を問題と認識しない(初心者)信者に対して、盲目にさせる(囲い込む)効果があるようだ。囲い込みされているせいか、彼ら(初心者)信者たちは、何が問題なのか、気がついていない。それゆえ、信者ビジネスが成立し、劣化ビジネスが蔓延る。



水間政憲は、パクリ言論人について以下に警告している。

||||| ここから引用開始 |||||||||||||||||||||||||||||||||||

http://mizumajyoukou.blog57.fc2.com/blog-entry-3075.html

実際、《『朝日新聞が報道した「日韓併合」の真実:韓国が主張する「七奪」は日本の「七恩」だった』(水間政憲著、徳間書店、2010年7月31日)》に掲載した論考の丸パクりもありますが、
ここにきて問題にしているのは、「パクり男」が
百田尚樹氏の『今こそ、韓国に謝ろう』の監修者に名前を連ねていたからです。

実際、一次資料で本をつくることを心がけているのは、
歴史戦の「武器」として使っていただければ「国益」に貢献できるからとの信念からです。

ところが「銭ゲバ」に編集されると、一次資料の情報が薄められ、
情報戦の武器としては半減していることが、わかったからです。

それによって、言論が希薄化された「銭ゲバ本」が書店にならび、
武器として役立たなくなったものが20万部だやれ60万部となると、
本来、保守国民が手にすべき本が「銭ゲバ本」に目移りして、
保守国民のレベルも相対化して低下していることが大問題なのです。

この状況が、松木國俊氏個人の書籍なら無視することも出来ましたが、
ベストセラーを連発している百田尚樹氏の監修者となると意味合いが違ってきます。

今のような状態で「パクり本」が、跳梁跋扈すると言論界全体の衰退を招き、
漫画本とハウツー物だらけになり、国力が坂道を転げるように低下すること必至です。

百田尚樹氏よ、まず謝らなくてはならないのは「韓国」じゃないだろう。

||||| ここまで引用 |||||||||||||||||||||||||||||||||||||||



主体的に判断、当事者意識を以て行動している人なら、パクリくらいは直ぐに見分けがつくはずである。

―― 参考情報 ――――――――――

超拡散宜しく《百田尚樹著『今こそ、韓国に謝ろう』を読んでビックリ仰天!
http://mizumajyoukou.blog57.fc2.com/blog-entry-3072.html

―――――――――――――――――

「日本国紀」も参考文献の記載がない。いずれ、、、

かつて、感動ものを得意とする歴史ブログの中に、パクリ記事があることに気づかない(初心者)信者がいた。

http://blog.livedoor.jp/t6699/

今は、感動ものの小説を得意とする作家が歴史ものを書いた本の中に大量のパクリ記事があるようだ。感動することに飢えている(初心者)信者は、何度も騙されている、、、




共通するキーワードは「感動」である。
感動させることができれば、信者を獲得することはたやすいということ。感動ものの秘話を書いている人なので、やましいことはしてない(だろう)という「信者の心理」を利用したビジネスなのである。

物事を色眼鏡で見ないということは、たとえ感動ものの秘話としての文章力が優れていたとしても、パクリ事案は冷静に問題と認識しなくてはならない。




主体的に考えるとは、こういうことなのである。




身近な例でこんなことがあった。
自治会総会にて、防災担当役員が、前年度に未曽有の災害発生があった地区であったにもかかわらず、前年度と同様の行事、研修参加を消化したと発表した。誰も質問しなかったので、総会終了後、具体的な案件を示し、こういうことをやって頂きたいと説明した。ちなみに、彼は携帯電話会社の社員。極度にマニュアル化された会社にお勤めだった。
とにもかくにも、目の前の喫緊の事案に対して、主体的に考えるのは難しいようであった。

国際政治学の世界でも主体的に考える学者が圧倒的に少ないとの指摘がある。

「自滅するアメリカ帝国」(伊藤貫)から引用させていただく。

||||| ここから引用開始 |||||||||||||||||||||||||||||||||||

16頁
最近の日本の政界と言論界では、「普天間の海兵隊ヘリコプターの移転先」と「米国の主導するTPPへの参加紋相」が、日本の直面する最も重要な外交問題であるとされる。しかし、それよりもはるかに重要な問題ーアメリカの一極覇権戦略が失敗してきたこと、②冷戦後の国際構造呉善花の多極化は必然的であること、③米経済力の相対的な衰退は、マクロ経済学からみて当然であること、④二十一世紀になっても日本の自主貿易政策(特に自主的な核抑止力)を阻止しようとしする米政府の対日政策は、不正で愚かな同盟政策であること、等々ーは、日本の政界・官界・言論界でほとんど議論されてこなかった。
日本の政治家・官僚・言論人が、国際政治の構造的な変化やマクロ経済学の重要な問題に関して知的に真剣な議論をせず、「海兵隊ヘリコプターの移転先」や「TPPの協議項目」といった細かい議論ばかりしているのは、彼らにパラダイム・レベルの思考力とグランド・ストラテジー構想能力が欠けているためである。

||||| ここまで引用 |||||||||||||||||||||||||||||||||||||||

学者たちも主体的に考えることが苦手なようだ。

国家のグランドデザインについて論評できない言論人が決定的に少なく、批判文しか書けない言論人だらけである。

仮に、小池百合子都知事が問題だとしよう。その中で評価されるもの、評価できないものに区分するというのならわかる。評価すべき項目についての分析を省略し、これでもかと批判文のみ掲載するというスタンスで小池百合子批判しても始まらないような気がする。これは、小池百合子批判本を書いた、批判スキルが突出している言論人に対する見解である。

保守・左翼問わず、批判しかできない言論人、分析も対策も表明できない言論人、抽象論だらけの言論人、あるべき具体論をまったく言わない言論人だらけである。



パクリ言論人は、それ以下の劣化版。

(感動することに飢えた)信者たちは、劣化版を掴まされているということ。



水間政憲が、歴史家として一流だとかそういう問題ではない。彼は彼なりにやっている。直に話したことがあるので、お人柄くらいはわかっていて書いている。

手本として具体的に提言して示す、言論人がほとんどいないのは、彼らが政界、官界の意思決定の実務に精通せず、法律文書を読まないため、主体的に考えられないためであると書いたら書き過ぎであろうか?

総じて彼らは、分析、判断、提言していたのか?ということなのである。

―― 参考情報 ――――――――――

なぜ彼らは反安倍・護憲なのか
http://sokokuhanihon.seesaa.net/article/465528220.html

―――――――――――――――――

最後に一つだけ申しあげたいことがある。
良い本に出会ったとする。良い本だと思ったら迷わず買うべきだ。が、よくよく読んでみて、根拠に乏しく、批判文しか書いてないとわかったら、その本はニセモノとみなし潔く捨てるべきだ。

かくいう私は、何冊も買い、いくつかある本箱に所蔵しつつも総入れ替えするくらい捨てた。それでも捨てなかった本はホンモノということになる。
本の価値は、信者にとっては一時期絶対的なものであっても、主体的に眺めると相対的なものとなるはずなのである。

以上

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02:55  |  言論人  |  コメント(0)

2019.05.14 (Tue)

水間政憲の名言

最近、水間政憲は、軽薄な出版活動について、警告し始めている。



パクリ問題に係わる、何気ない批判の中に、歴史研究、言論活動に係わる名言レベルの文章が含まれている。

お気づきであろうか?

本人は意識してしないかもしれないが、近現代史について調べ、史料発掘、出版化、国会審議用に情報提供した人でなければ語れない、含蓄ある言葉が並んでいる。

気になった箇所について引用させていただく。(水間政憲は、全文転載での引用許可を基本としていることは承知している。私は、水間政憲と直接話したことがあるし、水間政憲の本を何冊か所蔵している。ご自身のものの考え方は理解しているつもりである。)



||||| ここから引用開始 |||||||||||||||||||||||||||||||||||

http://mizumajyoukou.blog57.fc2.com/blog-entry-3077.html

◎《保守も革新も「法と証拠」がすべて!》

■歴史認識に係わる外交問題は、「法と証拠」が有効ですが、通じない韓国・中国には常に対抗措置を準備しておく必要がある。

私は、常に「法と証拠」がすべてと公言していますので、研究した実績のない者が唐突に「歴史認識本」でデビューしたときは「パクり」と見て間違いないと思っています。それは、「証拠」を探すには専門的な勘と考えられないくらいの時間が必要だからです。

最近の保守言論が薄っぺらになったのは、ちょっと話題になった程度で、ジャンル違いの本まで手を伸ばしているからなのです。

百田尚樹氏の「歴史認識本」に関する姿勢を報告してくれた方がおります。その方は、20年ちかくインターネット空間の「監視レジェンド」として知る人ぞ知る方で、下記の情報をいただきましたので紹介させていただきます。

★《百田氏の発言で死ぬほど驚いたことがありました。『2年前に、「今こそ、韓国に謝ろう」を出版した際に、事細かに間違いを指摘したサイトがあった』と発言し、続いて、『そうかぁ、自分も資料とか良く分からないし間違えているところもあるかもしれないなあと思って、今回は松木先生に監修して頂いた』と発言したことです。
普段、水間様を始めとする数少ない保守言論人の「法と証拠」に基づく歴史検証に慣れ親しんでいるせいか「間違えが許される」と思って言論活動している百田氏の感覚に拍子抜けして驚いたわけです。驚きと苦笑いと憤りが同時に込み上げてきました。》とあり、百田尚樹氏が言論界を低俗化させていることを認識し、小説に徹するべきときなのです。

※百田氏が監修を依頼した松木國俊氏は「パクり本」でデビューしていたのです。




http://mizumajyoukou.blog57.fc2.com/blog-entry-3075.html

実際、《『朝日新聞が報道した「日韓併合」の真実:韓国が主張する「七奪」は日本の「七恩」だった』(水間政憲著、徳間書店、2010年7月31日)》に掲載した論考の丸パクりもありますが、
ここにきて問題にしているのは、「パクり男」が
百田尚樹氏の『今こそ、韓国に謝ろう』の監修者に名前を連ねていたからです。

実際、一次資料で本をつくることを心がけているのは、
歴史戦の「武器」として使っていただければ「国益」に貢献できるからとの信念からです。

ところが「銭ゲバ」に編集されると、一次資料の情報が薄められ、
情報戦の武器としては半減していることが、わかったからです。

それによって、言論が希薄化された「銭ゲバ本」が書店にならび、
武器として役立たなくなったものが20万部だやれ60万部となると、
本来、保守国民が手にすべき本が「銭ゲバ本」に目移りして、
保守国民のレベルも相対化して低下していることが大問題なのです。




http://mizumajyoukou.blog57.fc2.com/blog-entry-3040.html

明治天皇のお孫さんに嫁がれた昭和天皇の長女であられた照宮成子内親王殿下の男子のお子さまは、必然的に民間人の美智子皇后のお子さまの皇太子殿下より、「天皇の血」が濃いことが「ひと目」でわかるように家系図を『ひと目でわかる「戦前の昭和天皇と皇室」の真実』に掲載し、ブログや動画で二年前に解説したところ、「デマに注意」とか、最近また「高校生物」程度で皇室を語るのは不敬とか、取り巻きが「皇族は競走馬じゃない!」とかなんとかインターネットに配信して大騒ぎしていたようですが、やっと小学生高学年程度の生物学を理解できたようで、3月20日の大塚耕平参議院議員の国会質疑にかこつけて、東久邇家の家系図をつくり、私がチャンネル桜などで解説した様なことを配信していました。ドイツジャーナリスト連盟会員のクライン孝子先生は、つい先日、「ドイツでは二行パクったらそいつは終わり」と、パクりに甘い日本を批判し「水間さんのパクっているやつを訴えなさい」と助言していただきましたが、最近話題になっている評論家や小説家の「歴史認識本」にはパクりが非常に多いと、オーストラリアからも連絡を受けましたので「世直しのため」にターゲットを絞り、一番突出しているやつを訴えることも視野に入れています。

本来の職種が歴史でない者が、売れれば何でもありの出版社に要請されたのであろうが、若者がまた被害者にならないように「本業」に戻ることが我が国の「国益」になるのです。





http://mizumajyoukou.blog57.fc2.com/blog-entry-3078.html?q=%E3%82%AA%E3%83%94%E3%83%8B%E3%82%AA%E3%83%B3

実際、紙媒体の雑誌とインターネットとのメディア最終戦争が
いま行われていると思っています。

それは、雑誌記者や編集者、そしてコラムを与えられている「タレント文化人」と、
醒めたインターネットユーザーの情報格差が歴然となり、
とうとうインターネットユーザー側に軍配が上がったのが
平成の終わりだったと語られると思っています。

『護国の風』を応援してくださっている方のブログの素晴らしさを拝見し、
すでに週刊誌の役割は終わったと確信した次第です。
http://hitorigot0.blog.jp/archives/1074368064.html

それは、感情にまかせたブログの時代から冷静沈着な時代に突入し、
本来あるべきオピニオン誌的役割が、
あえて名乗らない国民の方が雑誌編集者より遥かに高いレベルになっていることから、
新聞雑誌等紙媒体の終焉が平成だったと歴史に刻まれることになるでしょう。

ましてや、週刊誌にコラム枠を与えられている「タレント文化人」のレベルでは、
本来の読者層をとても満足させられるレベルではなく、
読者の方が鋭い視点を持っている時代になったことの認識もないようです。

||||| ここまで引用 |||||||||||||||||||||||||||||||||||||||


以上

テーマ : 政治・経済・時事問題 - ジャンル : 政治・経済

21:24  |  言論人  |  コメント(0)

2019.04.16 (Tue)

ふわふわした言論人たち 

私は、条件付き政権支持派である。
桜を見る会に出演されたとされる、有名言論人について、ほとんど関心がない。


―― 参考情報 ――――――――――

安倍首相が「桜を見る会」に『虎ノ門ニュース』ご一行を堂々招待! 百田尚樹、有本香、ケントらネトウヨ文化人に囲まれご満悦
https://lite-ra.com/2019/04/post-4658.html

―――――――――――――――――

少なくとも、彼らのサクラではないと思っている。



本題に入りたい。



中川八洋が西尾幹二のことをこっぴどく批判している。


―― 参考情報 ――――――――――

天皇制廃止狂の西尾幹二
http://nakagawayatsuhiro.com/?cat=10

―――――――――――――――――


中川八洋の本を何冊か所蔵、読んでいる関係で、西尾幹二の「国民の歴史」や自身のブログで述べられる、論理的必然性なき、思いつくがままの文章作法、ふわふわしたモノの書き方が気になっている。それでも、着眼点の良さは認める。

西尾幹二と同年代で、ドイツ哲学専攻の学者で政治を語る言論人に、加藤尚武がいる。
「戦争倫理学」で述べられた、憲法九条解釈は、ノンポリ(政治的に中立)という立ち位置での考察である。

一読の価値がある。西尾幹二の文章作法との比較の意味においてである。

西尾幹二は、何かにつけて、自著に「保守」という言葉を用い、保守の視点から述べていると自身は主張する。これに対し、加藤尚武は、自身が保守であるかどうかについてまったく述べようとしない。そんなことよりも物事の道理として、扱っている事項についてどうあるべきか、述べている。さすが学者らしい論理展開だと思う。




これが学者のあるべき姿なのである。



これは、著書のタイトルに何かにつけて「保守」という言葉を選びたがる「中島岳志」という学者にも言えることである。

「保守」という文字にこだわるから、中身が、、、ということなのである。

それゆえ、何かにつけて、保守だから、、、とか愛国だから、、、という論理を持ち出す言論活動は、説得力に乏しいと言わざるを得ないのである。




百田尚樹の歴史書はどうだろうか?
話題となった本は、(意識して歴史書を読んだことがない)小説ファン=「信者」向けに書かれたものであろうと私はみている。でなければ数十万部も売れるはずがない。

政権ならびに桜を見る会の雰囲気に無条件で賛同される方は、私には信者に見える。

つまり、百田尚樹は、自身のファンと政権無条件支持派向けに、あの本を書いたのではないか。

出版社からの情報により、平成が終わるというタイミング、数多の歴史書を書いた渡部昇一の逝去というタイミングで、今なら通史ものの歴史書が売れると判断、小説の愛読者向けに出された、歴史書(と称する歴史書?)である。
渡部昇一が生きていたら、渡部昇一は平成を総括するという趣旨の本を出していたのではないか?
その本、私は完読していないものの、そもそも、歴史書の要件を満たしているのか、そういう視点で眺めている。(断定ではない)

百田ファンは、私の指摘に反発されるだろう。が、歴史学の本やそれなりの歴史書を一冊でも読まれた方なら、評価は一変するはずである。




最大の疑念は、参考文献を示さないことから生じる剽窃の問題である。(断定ではない)




水間政憲は、百田尚樹と名指しはしないものの、かく論評している。

||||| ここから引用開始 |||||||||||||||||||||||||||||||||||

http://mizumajyoukou.blog57.fc2.com/blog-entry-3040.html

ドイツジャーナリスト連盟会員のクライン孝子先生は、つい先日、「ドイツでは二行パクったらそいつは終わり」と、パクりに甘い日本を批判し「水間さんのパクっているやつを訴えなさい」と助言していただきましたが、最近話題になっている評論家や小説家の「歴史認識本」にはパクりが非常に多いと、オーストラリアからも連絡を受けましたので「世直しのため」にターゲットを絞り、一番突出しているやつを訴えることも視野に入れています。

本来の職種が歴史でない者が、売れれば何でもありの出版社に要請されたのであろうが、若者がまた被害者にならないように「本業」に戻ることが我が国の「国益」になるのです。

http://mizumajyoukou.blog57.fc2.com/blog-entry-3047.html

※オーストラリアの方からも小説家の歴史本に
私が発掘した資料を大量に「パクっている」と連絡があり、あらためて驚いておりますが、

||||| ここまで引用 |||||||||||||||||||||||||||||||||||||||


水間政憲は、小説家は小説家らしく、本業で歴史小説(歴史書ではない)を書けばいいと言いたいようだ。

歴史研究者と思われる(アマゾンの)書評も参考となろう。


||||| ここから引用開始 |||||||||||||||||||||||||||||||||||

https://www.amazon.co.jp/「日本国紀」の副読本-学校が教えない日本史-産経セレクト-S-13/product-reviews/4819113550/ref=cm_cr_dp_d_hist_1?ie=UTF8&filterByStar=one_star&reviewerType=all_reviews#reviews-filter-bar

分部光元

5つ星のうち1.0
自分が過去の人になったと仮定してみると… 2019年3月30日

学説は学者が唱える単なる意見ではなく、膨大な史料解釈や先行研究等を踏まえた精緻な研究活動によって形成され始めるものであり、かつ、それが形を持った論文として成立するためには数多の学者の審査にさらされてようやく認められることを要します。
そのようにしてようやっと、歴史学的批判の場に出てくることが許されるのです。
やみくもになんらの史料解釈や先行研究を踏まえずツイッターで意見を発信するような作業ではないのです。

数多の審査を経た学説とそうではない意見との違いは十分理解する必要があるでしょう。緻密な論理を経て歴史を可能な限り合理的に探求するのか、あるいは思いつきで想像力を働かせて歴史を空想するのか…歴史上の人々は我々に前者を期待するでしょうね。
数世紀後の人々が平成時代はああだこうだと史料を用いずに思いつきで論評していたら私は残念に思うでしょう…。単なる想像で歴史を語るのは先人に対して敬意ある行動と言えるのでしょうか。

||||| ここまで引用 |||||||||||||||||||||||||||||||||||||||




信者たちは、上記の、水間政憲や歴史研究者の見解が理解できているのであろうか?

小説家として一世を風靡した司馬遼太郎の場合はどうだったか?
「この国のかたち」という、歴史ネタを扱う本にて、驚くべき創作意欲と文章表現上の不正確さが、同居していた。面白い記述がたくさんある一方、文章的に不正確な箇所(論理的に正しくない文章という意味)も結構あった。
文章表現上の不正確さは、歴史書の場合致命的である。
困ったことに、司馬遼太郎の読者層の大半(団塊世代よりも年上世代)は、司馬遼太郎の歴史上の人物を扱った小説を歴史書であると勘違いしていたことを私は気がついている。



水間政憲が「若者がまた被害者にならないように」と述べたのは、正当な歴史書がどういうものであるか誤解する人が少なからずいることを暗示している。これは、西尾幹二の「国民の歴史」を初めて読んだ時に思ったことでもある。

以上

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2019.03.08 (Fri)

政治ニュース解説するコメンテーターたちの実力

政治とは別の世界、たとえば、将棋番組の世界では、重要な局面での、次の一手に関し綿密な解説が行われるのが通例となっている。

囲碁番組はそれほどでもない。理由はわからないが手数が多いことと関係しているような気がする。

将棋の番組では、注目すべき局面にさしかかったところで、番組出演したプロ棋士解説者が、「この局面がポイントです」と宣言、この局面以降、いくつかの対応パターンがあると、盤面の駒を動かしつつ、先手、後手、双方がそれぞれ最善手を選んだ場合、当該局面以降、先手、後手どちらが優勢なのかを示す。通常はその解説どおり、勝負は終盤に向かう。稀に外すことはあるが。

解説の語り口の面白い人が、(強いプロ棋士でなくても)将棋界では面白い解説者として重宝されている。
また、重要な局面での次の一手について、将棋の世界では、解説者による、好手、最善手、悪手、最悪手、妙手、奇手、疑問手、鬼手という「分類」が日常的に行われる。数人のプロ棋士たちが集まった勉強会にて、分類評価を下すケースもあると聞く。


趣味で将棋ブログを開設された方の将棋解説が以下にて読める。

―― 参考情報 ――――――――――

あらきっぺのお気まま将棋ブログ 「毎日次の一手」の記事一覧
https://arakippe.com/archives/category/%E6%AF%8E%E6%97%A5%E6%AC%A1%E3%81%AE%E4%B8%80%E6%89%8B

―――――――――――――――――

面白いと思ったので、スマホで登録して読むことにした。

「毎日次の一手」では、次の一手における手筋的な目的は何か、最善手はどれか?を数ケース編み出しつつ、分析し説明している。

この方は、プロ棋士になろうと挑戦しつつもなれず、それでも将棋が好きでブログ活動されている方である。



将棋の世界でプロでない人が、精緻に分析、解説しているのに対し、政治ニュースの世界はどうであろうか?


彼ら、政治ニュース番組に出演するコメンテーター(政治学者、政治評論家の類)は、政権が下す次の一手の可能性について、将棋の解説のように、複数ケース設定しつつ比較評価したことが今まであったのだろうか?

そして、コメンテーターたちは過去の分析データを以って、政権が下した決断について、好手、最善手、悪手、最悪手、妙手、奇手、疑問手、鬼手と分類評価する判断基準を有していたのであろうか?
そして、彼らは、政治的に、妙手、奇手、鬼手を見出し、理解するほどの知的教養を有し、研鑽を重ねてきたのであろうか?

私は疑問に思う。



TBSのサンデーモーニングに出演する政治学者と称する人たちは、外国籍?の放送作家が書いたシナリオを読み上げる程度の存在なのではないか?

山口二郎はじめ、テレビ番組に出演する政治学者を名乗る人たちは、そもそもアカデミックな水準に達しているのかということなのである。

国民栄誉賞を受賞した羽生の場合は、かつてどうであったか。将棋の世界では、羽生は絶対的な存在ではなくなった。
羽生の少年時代、広島カープの野球帽を被って上京した羽生少年は、優勢な時は憎たらしいほどうまく指し、劣勢の時は、妙手、奇手、鬼手を連発し対戦相手を惑わし、劣勢をひっくり返したことが何度となくあった。


これに対し、テレビ出演する、政治学者、政治評論家たちは、政権批判する能力しか有していない気がする。
テレビ出演する政治学者、政治評論家たち、当該政治局面での妙手、奇手、鬼手について気がついているとは思えないのである。

たとえば、政治評論家を名乗るなら、どの局面にてどう対応するのが最善なのか、言わなくては、プロ棋士の解説能力に及ばないことになる。
まして、日露、日韓と外交的難題を抱えている中で、こういう妙手、奇手、鬼手があると語らずして、政治学者、政治評論家たる資格があるのか?


私は疑問に思う。


提言がまるでなく、「批判スキルだけで世渡りする」言論人が多すぎる気がしている。これは保守系、左翼に限らず、共通した現象である。
「この場面ではこうすべきという趣旨の言論活動」の少なさが問題なのである。
ゆえに、私は、ニュース番組を見る気がしないのである。政治雑誌を読む気がしないのである。


彼らは、本当にプロと言えるほどのアウトプットを出力しているのか、、、

それならば、雑音を排し、身近に得られる公開情報から分析を行い、陳情されたい方の存在を意識し、何がしか役立ちそうな情報発信した方が、言論空間においては有益なのではないか、とつい言いたくなるのである。

以上

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05:28  |  言論人  |  コメント(2)
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