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2018.01.11 (Thu)

三橋貴明氏の騒動について(私見)

超有名保守系ブロガー、三橋貴明氏が逮捕、釈放された件について、私見を述べさせていただきます。

三橋貴明氏の逮捕については、(三橋貴明氏は保守ではないと語る方がおられるでしょうが)保守陣営の立場としては損失とみています。


当然の事ながら、保守側の商売敵が、蹴落とす意味であれこれ書き綴ることは、すべきことではないように思います。

―― 参考情報 ――――――――――

三橋貴明氏の逮捕に際して、保守に思うこと【同士撃ちは見たくない】
https://samurai20.jp/2018/01/mitsuhashi/

三橋貴明の逮捕情報の拡散に熱心な言論人、冷静に分析した言論人、無反応な言論人
http://yamatonoibuki.seesaa.net/article/456065694.html

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私は、参議院選挙に自民党公認で出馬した三橋貴明氏の街頭演説を聞きに行ったことがあります。当時はまだ純朴でまともそうでした。

三橋貴明氏はその昔の政治的立ち位置は政権よりも右寄りの?保守だったはずですが、政策的には、アベノミクス反対、日韓合意反対、TPP反対、種子法反対、移民受入れ拡大反対のポジション。
拙ブログは、アベノミクスは成功していると認識、日韓合意については1ヵ月間ほど熟慮分析し政権の外交的勝利と判断、TPPは消極的賛成派ではあるが英国加入によって日本は強国化すると判断、種子法については実務的に知らない分野でありかつ膨大な調査が必要と判断し関与せず、移民受入れ拡大については安易な省令改正という手法を問題視。

拙ブログは、三橋貴明氏のブログ記事を引用することはほとんどありませんでしたが、その理由は、ちょっとでもあるいは一部でも反対意見を書くと…………ということが予想されたからです。

たまたま、奥さんがあることで違う意見であることを強く表明し…………ということです。

おそらく、著作活動、ブログ活動等、普段どおり復帰されると思いますが、経済分析以外では少ない情報だけで判断を急ぐ癖、ちょっとしたことで感情的になったり、テーマによっては初めに結論ありきで書く癖、そして自説と反対の人をレッテル貼りして非難する習性があることに、気づくべきだろうと思います。

自分がイメージした通り、事が進まないと、イライラする癖があるということです。
それは私にもあります。私の若い頃は三橋貴明氏以上でした。

三橋貴明氏の支持者はこう言うかもしれません。ブログランキングにも入らないような、無名のブロガーが、他人の不幸は蜜の味的感覚で、三橋貴明氏の逮捕に乗じて好き勝手に語っているだけではないのか。

それは違います。
かつて参議院選挙に自民党公認で出馬し、言論人として復帰のタイミングで、(政治的に影響力ある、超有名ブロガーであるがゆえに)、自身の政治的影響力を正しく受け止められ(参議院選挙で約4万票獲得したこと)、そういう経歴を踏まえ配慮いただきたいことを、今のこの時点で申しあげているに過ぎません。

―― 参考情報 ――――――――――

2010年 参議院選挙 全国区比例
http://www.yomiuri.co.jp/election/sangiin/2010/profile/yb001018.htm

―――――――――――――――――

経済分析の視点はなかなかのレベルであったことは認めますが、経済以外の分野の分析は今一つ、直情径行型で少ない情報だけで判断を急ぎ過ぎる傾向があったと見ております。

―― 参考情報 ――――――――――

経済評論家の三橋貴明容疑者を逮捕!10代の妻殴るなどした疑い・1月7日放送TVタックル出演
http://deliciousicecoffee.jp/blog-entry-6937.html

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ここで、論理の飛躍(結論を急ぎ過ぎる)ケースの一例を紹介させていただきます。

||||| ここから引用開始 |||||||||||||||||||||||||||||||||||

亡国の政権
https://ameblo.jp/takaakimitsuhashi/entry-12341400905.html

 正しい政策は、介護業界の生産性と所得を引き上げることであるにも関わらず、安倍政権は「移民受入」に邁進しています。まさに、亡国の政権です。

中略

 日本が進むべき道は明らかであるにも関わらず、それに背を向け、移民受入という最悪の政策を推進する。改めて、安倍政権は「亡国の政権」以外の何物でもないのです。

||||| ここまで引用 |||||||||||||||||||||||||||||||||||||||

上記引用の文章、論理の飛躍があると私は思います。
移民受入れ→亡国政権と断定するのであれば、亡国という言葉の定義をどうするのか、なぜその規模の移民受入れで亡国になるのか定量的分析、説明が十分と言えません。(ビジネス文書的には、その10000倍?くらいの規模なら誰もがその悪影響を認める可能性が高い点で、「亡国」と書けるだろうと思います。とぼけて書いているのではありません。)

私は、移民受入れ拡大反対派に属していますが、いきなり「亡国の政権」とは、ビジネス文書上は書きません。別の言葉を使います。

仕事上、嫌なことを処理させられることがままあります。
ビジネスマンなら誰でもそうですが、そういう場面になればなるほど、感情を殺し、淡々と対応するものです。
淡々と対応する。言葉で書くことは簡単ですが、顔色を変えず、暴論を吐かず建前を平然と述べ、相手に本心を悟られず、対応するのは非常に難しいことです。

普通の人が、それを何年もやらされれば胃に穴があきそうに…………………

三橋貴明氏に欠けているのは、この淡々さです。

一方で、言論人としての三橋貴明氏は、グレーゾーンが少ない点において珍しい存在でした。テーマ別に論旨がはっきりしているため、若い人たちに評価、支持されたのでしょう。どちらにでもとれる文章を書こうとしない点において、潔い人であるようです。多くの言論人は、(そもそも各論がなく)総論を延々と述べつつ、どちらにでも取れるようなことを平然と商売上やってのけます。

タイミング的に判断を急ぎたくない場合は、どちらにでもとれるグレーゾンのポジションをとることが、処世術的には賢明であろうと私は思います。
種子法について、政府決定が間違っていると決めつけることは簡単です。が、分析・検証が十分だったのかということです。中央省庁にて責任あるポジションにある人なら、そう判断する根拠を全方位的に求められます。全方位的にという言葉の意味はおわかりのことと思います。

そういう意味で、三橋貴明氏は非常に正直な方であると思います。
また、三橋貴明氏は、経済分析スキルだけなら、その辺の経済学者やエコノミストよりずっとマシであると評価します。

以上、年長者の視点から三橋貴明氏を眺めた評価であり、提言(的示唆)ということになります。
三橋貴明氏のファンの中にはこう書いて怒る人がいるかもしれません。
が、拙ブログは、安倍首相にも官邸スタッフにも議員向けにも提言することを指向しています。提言対象が三橋貴明氏であるという理由で問題とはならないはずです。
良い点もそうでない点もあると書いています。自身の政治的影響力を自覚され、そうでない点への対応を修正するだけで、パワーアップできる可能性(実現しやすい政治的状況が生まれるという意味)があるということです。

以上


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2017.11.22 (Wed)

戦後の文系学者の大半が「意味のない研究」をしてきたのではないのか?

日本の大学での学術研究が、全分野において下手をすれば途上国レベルにあることは、継続的に拙ブログを読まれている方ならお気づきのことと思う。

次に、テレビに出演する政治学者たち、金子勝、山口二郎、そしてサンデーモーニングなどの左翼しか出演しないテレビ番組にて出演する自称政治学者なる人たちの発言を眺めて、誰でも政治学者になれそうな気がしている方も多いと思う。

さて、私は、中学時代から理系。文系に進まなかったのは、文系学問はどの分野であれ、独学で履修可能、と思ってきたからだ。
私個人は、そう意識し続け、現在に至っている。

この10年間、歴史書を読み続けた結果、日本の歴史学者で通史を書ける歴史家レベルの人は皆無のようであり、職業的に言うところの歴史学者はミクロの次元での史料検証技術を駆使した特定分野の文献中心の研究者であることがわかってきた。さらに、考古学的な画期的な発見があろうと、彼等歴史学者は、その取り入れることがない。学際に興味を示さない点において視野狭窄であることもわかってきた。

次に、憲法学者たち。大学教養時代に初めてその存在を知り、護憲理論には、無理があるような気がずっとしていた。昨今の集団的自衛権見直し、平和安全法制などに反対声明を出している、護憲派憲法学者たちをみていると、近い将来、保守派が増えているとされる東大を含め、全国の大学学生たちから、現実を知らない●●と扱われるであろうと予想する。

次に、理系と文系の学者間論争についてはどうであろうか?

中川八洋と西尾幹二のケースしか私は知らない。「保守主義の哲学」、「正統の哲学 異端の思想」などの名著がある。本来は本職の政治学者が書くべきものであるが、東大工学部出身の中川八洋が危機感をいだき執筆、保守言論界の名著となった。左翼陣営は受け入れたくないようだ。学問的に保守政治哲学が、長期間、意図的に?見落とされてきたことは信じがたい現象である。
この二冊については、それなりの読解力ある方が読めば、テレビ出演する政治学者たちよりは、はるかに学術的であり、はるかに体系的であり、はるかに論理的であることくらいはわかる。一方、西尾幹二は、最近「保守の………」という批判ものの本を出した。が、当該ブログ記事を読んでいくと、中川八洋の方が、学術的、体系的、論理的であるという印象である。よって、二人の論争は、理系の勝利のように私には映る。

では、渡部昇一、西尾幹二、どちらが歴史家として評価されるか?
渡部昇一は教科書問題では在野の存在。西尾幹二が初代つくる会の会長。
二人の本を比較して読んだ印象を書かせていただく。渡部昇一の本を読むと、他の本も読みたくなるし自分でも歴史書が書けるのではないか、そんな錯覚を抱かせる。他方、西尾幹二の本を読むと、初めて読んだ時はそういう見方もあるのか感嘆するのであるが、詳細レベルで調べようとすると、どういう手がかりがあるのか、見当がつきにくい。読めば読むほどわからなくなる。
渡部昇一は、「歴史の虹」なる理論を編み出し、この渡部理論をあちこちで表明、多くのブロガーが「歴史の虹」という言葉に感銘し引用紹介したこともあり、渡部昇一の方に軍配が上がる。西尾幹二の本を引用したブログ記事、残念ながらGHQの焚書情報以外、あまり見かけない。なお、学者世界では、引用件数が評価対象となっているそうだ。
よって、歴史書の評価としては、「渡部昇一の少年日本史」>「国民の歴史」となり、歴史家としての評価も、渡部昇一>西尾幹二となるように思う。
そうは言っても、西尾幹二のGHQ焚書図書開封シリーズでの、戦前の本の読書案内は読んでいて楽しい。

ここで、西尾幹二が、なぜ、論争で負け?、歴史書で競り負けた?か考えなくてはならない。西尾幹二は、つくる会の設立に係わり、つくる会初代会長だったのに!である。
その理由を、多くの文系学者たちが抱えてきた、スキル的な点に見出せるような気がする。
こんな見方もしている。つくる会初代会長が渡部昇一だったら、教科書運動も違った展開となったのではないのか?それゆえ、つくる会発足時の人選の経緯、非常に残念に思っている。

―― 参考情報 ――――――――――

つくる会発足時点で起きたこと  「渡部昇一の少年日本史」刊行の意味 
http://nihonshitanbou.blog.fc2.com/blog-entry-412.html

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続いて、潮匡人の「日本人として読んでおきたい保守の名著」について述べたい。潮匡人については、その昔から、雑誌等に名前が載っている人であるという記憶だけで、どんな考えの人なのかまったく知らない。
この本では、多種多彩な本が紹介されている。潮匡人は、いろいろ読み込んでいるようだ。経歴的に多彩、文系も理系もこなせそうなマルチスキルの人のようだ。
が、説明が丁寧でなく、「そんなことは説明しなくてもわかっているはずだ」、みたいな調子の文脈であることが気になっている。つまり、初めに結論ありきの書き方を指向するタイプであるようだ。

アマゾンの書評コメントが参考となるだろう。

||||| ここから引用開始 |||||||||||||||||||||||||||||||||||

https://www.amazon.co.jp/%E6%97%A5%E6%9C%AC%E4%BA%BA%E3%81%A8%E3%81%97%E3%81%A6%E8%AA%AD%E3%82%93%E3%81%A7%E3%81%8A%E3%81%8D%E3%81%9F%E3%81%84%E4%BF%9D%E5%AE%88%E3%81%AE%E5%90%8D%E8%91%97-PHP%E6%96%B0%E6%9B%B8-751-%E6%BD%AE-%E5%8C%A1%E4%BA%BA/dp/4569800076/ref=sr_1_10?ie=UTF8&qid=1511162522&sr=8-10&keywords=%E6%BD%AE%E5%8C%A1%E4%BA%BA

5つ星のうち2.0
命令系統の人の資料集め
投稿者Garko2011年9月10日

引用し、紹介された著作については、新書で知識を知る私には、十分に役に立つものである。
 おそらく、著者はすごい量の資料を読み込んで入るのだろう。そうでなければ、あれだけの参考文献の提示はできないし、してはならないだろう。
 引用は、一つの目的、著者がまえがきで述べる方向にまとまっており、なるほどと感心する。ただ、その引用を評価するときに、何か腑に落ちないものを感じる。それは、一つの目的にあまりに引っ張られすぎているのではなかろうか。
 著名な論客の見解を引用することが権威主義的な印象を与えるのも、その落差のためかもしれない。自分が考える保守主義の正統化という命令に、すべてが従っているような印象すら与える。
 むしろ、資料にすべてを語らせた方が、この著者の特性を生かしたのではなかろうか。

||||| ここまで引用 |||||||||||||||||||||||||||||||||||||||

この書評コメントはある事実を示唆している。
読みにくい本であることを指摘している点で、ゴーストライターものではなさそうなのだ。

この本の読みにくさについて一言で述べると、渡部昇一ほど親切な書きぶりではなく、本のタイトルと著者以外の箇所の文章がまったく記憶に残らないのである。
私の読み方、読む態度が悪いのであろうか?比較的近刊であるのに、古書価格で低価格の出品が目立つのは、買って読んでみたものの、読み捨てた人が多かった証左ではないか。

https://www.amazon.co.jp/gp/offer-listing/4569800076/ref=tmm_pap_used_olp_sr?ie=UTF8&condition=used&qid=1511319063&sr=8-8

つまり、潮匡人が読んで欲しいという本が何であるのか、紹介された本のタイトル情報は伝わるものの、それ以外の説明が不親切かつ論理の飛躍がある?と言いたい。

さて、「日本人として読んでおきたい保守の名著」と、中川八洋の「保守主義の哲学」には、読むべき本が紹介されている。中川八洋の「保守主義の哲学」には読むべきでない本も紹介されている。

日本を益する自由擁護の保守主義系の思想家たち 保守主義の哲学 
日本を害する人間憎悪・伝統否定・自由破壊の思想家たち 保守主義の哲学

この2冊の本で紹介された、読むべき本の共通点などから、私はある現象に気がついた。

世界の名著全集(全81巻、中央公論)、人類の知的遺産(全80巻、講談社)という名著全集がある。

―― 参考情報 ――――――――――

世界の名著
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E4%B8%96%E7%95%8C%E3%81%AE%E5%90%8D%E8%91%97

人類の知的遺産
http://www5a.biglobe.ne.jp/~outfocus/book%20story/chiteki-isan/chiteki-isan-main.html

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実は、これらのシリーズもの、私は数冊所蔵していたが、最終的に、寄贈した。実態としては捨てたに等しい。

保守思想に目覚めた以降、名著全集は学ぶ価値がない無駄なものだらけであり、役に立たないもの、中には社会を破滅させ人類を破壊するための理論も含まれるとの結論に達した。

何を言いたいのか?

日本の名著、人類の知的遺産で取り上げられたウエートで、偏向した政治学者、偏向した哲学者たちが存在しているのではないのか?

政治学も哲学も学問的に徹頭徹尾偏向しているのではないのか?

しかし、つい最近、今日的視点で買い直したものもある。

アダム・スミスである。いろんな意味でアダム・スミスを理解する必要があるとの結論に達したからである。

ただし、文系の政治思想、哲学の本を、中川八洋の評価、価値観で眺めていくと、これら出版界で名著とされる本に係わった、政治学者も哲学者たちは、まったく世の中の役に立つことを考えていないか、孫世代以降の子孫を不幸に陥れても何とも思わない価値観の人たちではないのか?

そう考えると、文系学者すべて、一旦、国家的規模でシャッフルした方が後の世のためにいいのではないか?
文系学者の90%をリストラして構わないのではないのか?

保守的な東大の学生諸君たちに申しあげたい。学生運動時代とは逆に、護憲派東大教授陣を馬鹿にすればするほど、保守言論界は拍手喝采するのではないか?

文系学問、実態的にどれも独学でできる程度の世界であり、在野の研究者による出版も相次いでいるではないか?

職業文系学者たちの、能力不足そして学問的偏向ぶりは、完全に露見しつつあるのではないか!

世界の名著みたいな全集において、保守政治哲学が取り上げられない現状を鑑みて、そう考えるのである。

そして、論争で連敗続きの?西尾幹二について、本来的に言う、世界の名著全集の再構築について、ドイツ哲学という専門を生かし取り組まれんこと
出版各社に対しては、歪んだ言論空間を糺し、矯正すべく、抜本的な取り組み
を期待していることを告白し、本稿を終える。

以上

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11:56  |  言論人  |  トラックバック(0)  |  コメント(4)

2017.11.17 (Fri)

同じ情報でも人によって見解が変わる可能性はないのか?

最近、西尾幹二の「GHQ焚書図書開封11 維新の源流としての水戸学」を読んでいる。



ひと言で言うと、読書案内本であり、西尾幹二ならではの、着眼点の紹介がある。
内容的には、読書案内本として、そして着眼点の紹介という視点から読むと、優れた本の部類に入るだろう。
水戸学に関するわかりやすい本が少ない中、この本の存在は貴重である。

しかし、一方で、この著者固有の癖について、著者自身、気づいていない気がする。
一つは、著書の中で敢えて書かずとも済む、言い換えると、本筋から外れる箇所が多いことである。
もう一つは、たとえば、三つの情報A、B、Cが、本書の中で紹介され、その情報から導かれる見解Dがあったとして、著者が述べる評価というか結論に、論理的飛躍があり、数式的に「A+B+C ⇒ D」と断定するには、論理的に無理がある文章が目立つような気がする。

つまり、Dだとする評価を述べ結論を断定する前に、なぜそう解釈したのか、一文が欠けているケースが多い気がするのである。「根拠を示さずに断定する」ケースと「解釈に至る論理展開を示さずに断定する」ケースがあるような気がする。



中川八洋は、かく西尾幹二を批判し続けている。

―― 参考情報 ――――――――――

西尾幹二の妄言狂史
http://nakagawayatsuhiro.hatenablog.com/archive/category/%E8%A5%BF%E5%B0%BE%E5%B9%B9%E4%BA%8C%E3%81%AE%E5%A6%84%E8%A8%80%E7%8B%82%E5%8F%B2

―――――――――――――――――

中川八洋の批判は人格否定、いや全否定に近い。
それでも少しくらい、良さは認めるべきだと思う。
が、中川八洋が「妄言」という言葉を使っている意味に着目したい。
理系出身の言論人ゆえ、「根拠がはっきりしない見解」、あるいは、「言葉足らずで説明不足の見解」について、中川八洋は「妄言」という言葉で表現したこのであろう。

具体的に書くとこうなる。

仮に、三つの情報A、B、Cが存在
三つの情報から導かれる評価がDだとして
A、B、Cの情報から、いきなりDだという評価となるという表現手法を多用しているのが西尾幹二であると、この本の内容から私は判断している。

少なくとも「A、B、C三つの情報から、EないしFであると思われ、評価としてはDとなる。」西尾幹二は、いきなりDと言わず、間に一文入れて書くことを習慣化すべきではなかったか?



中川八洋の批判記事を全部理解した訳ではないが、冒頭で紹介した本は、水戸学の全体の流れをおさえており、水戸学の読書案内としては、滅多にない入門書である。
が、著者が評価し、判断を下す箇所については、なぜそういう結論に至るのか、保留すべきだ、それが、読んだ感想である。

良い本は良い本である。
しかし、そうだからと言って100%満足できる本はない。
良い本の良い部分は認め、そうでない部分と区別する。
読書する際に必要な基本的作法であろうと私は考える。

水戸学関係の本、もっと読まれるべき内容であると考えている関係で、言論人の皆様におかれては、是非水戸学の入門書の出版化について、ご検討をお願いするところである。

以上

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12:29  |  言論人  |  トラックバック(0)  |  コメント(0)

2017.11.07 (Tue)

本を図書館に寄贈するのは喜ばしいことだが

本の寄贈と聞いて、ある歴史学者のことが思い出される。

||||| ここから引用開始 |||||||||||||||||||||||||||||||||||

https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%AE%B6%E6%B0%B8%E4%B8%89%E9%83%8E

家永三郎文庫
家永の蔵書の大部分(約12,000点)は遺族の希望に基づき、中国天津市にある南開大学の日本研究所に寄贈された。また、家永が『植木枝盛研究』(岩波書店)等の執筆に際して蒐集した明治期の出版物を中心とする文献資料は、町田市立自由民権資料館に収蔵[10]されており、それぞれ「家永三郎文庫」と命名されている。

||||| ここまで引用 |||||||||||||||||||||||||||||||||||||||

日本に留学してくる、南開大学の日本研究所出身の中国人歴史研究者は、家永三郎文庫に接して、日本を歴史的に貶めることを当然だと考えるはずである。
なぜなら、家永三郎の遺族が寄付したからである。

さて、私が知る、いわゆる県立図書館、設置の経緯などから、全国的に名の知れた国会議員が本を多数寄贈した。国会議員が寄贈した本であるとのスタンプ印があったのでわかったことである。

かくいう私も、読まなくなった本や聞かなくなったCDなどを図書館に寄贈し続けている。ブックオフに持って行けば金にはなるが、図書館に寄贈する方を選ぶ。
図書館所蔵の言論人の本の中では、岡崎久彦の本の中に寄贈本が多かったと記憶している。ともすれば、世話になった地域や郷土に、言論人は本を寄贈する習性があると私はみている。

ここで、新潟県長岡市出身の有名人を参照したい。

http://yuumeijin.info/sichoken.php?sicho=%E9%95%B7%E5%B2%A1%E5%B8%82

山本五十六や櫻井よしこが長岡出身だそうだ。半藤一利、和久井映見、三波春夫も長岡出身だそうだ。

長岡出身の有名人は多い。
大学の同期生に長岡高校出身者がおり、その人物は、長岡出身の有名人を覚えかつ郷土愛に満ちた人物だった。ただ、その同期生の発想は、「有名人だから、素晴らしいという価値観の中で、その有名人が優れた人物である」との印象を抱いていたようだ。

ひがんでそう書いているのではない。
山本五十六の名言録みたいな本を度々書店で見かけたことがある。大東亜戦争での相次ぐ海戦での敗北は山本五十六が愚将であるがゆえに招いた、かもしれない検証をせずに、優れた表現の言葉のみを集約して刊行された可能性ががある。
郷土愛に満ちた長岡出身者が係わってビジネス書として流布されている可能性を指摘する。

櫻井よしこはどうだろう。

長岡図書館の所蔵実態を確かめたい。

http://www.lib.city.nagaoka.niigata.jp/

「櫻井よしこ」で所蔵本検索を試みる。

―――――――――――――――――

1
NEW
 韓国人の皆さん「強制連行された」で本当にいいの?
杉田 水脈/著 -- 育鵬社 -- 2017.10 -- 210.7 -- 日本語
貸出中
予約
2
 論戦 2017 頼るな、備えよ
櫻井 よしこ/著 -- ダイヤモンド社 -- 2017.8 -- 304 -- 日本語
貸出中
予約
3
 それでも原発が必要な理由(わけ)
櫻井 よしこ/著 -- ワック -- 2017.6 -- 539.091 -- 日本語
貸出可
予約
4
 赤い韓国 ( 産経セレクト S-007 )
櫻井 よしこ/著 -- 産経新聞出版 -- 2017.5 -- 302.21 -- 日本語
貸出中
予約
5
 一刀両断
櫻井 よしこ/著 -- 新潮社 -- 2017.5 -- 304 -- 日本語

―――――――――――――――――

櫻井よしこは、今年5月から8月にかけて4冊出版している。

ある言論人によれば、出版業界の常識として、一人の言論人が1年に書ける本は2冊が限界だそうだ。



つまり、上記の4冊の新刊書は、複数のゴー●ト●イター(最大●人?)が書いた可能性がある。

長岡の図書館は、地元出身の有名人の本を早速配本している。

皆様は、寄贈本、図書館の購入本どちらを予想されるであろうか?
出版社手配の寄贈本であろうと私は推定する。

図書館の所蔵本は、ネットで当該図書館で検索すれば調べられる。郷土愛、愛国、保守にこだわっている言論人の本が出身地の図書館に所蔵されているかどうか、調べてみる価値はある。

意外なことがわかるはずである。

少なくとも、櫻井よしこの本については、ゴー●ト●イター臭いのものだらけではあるものの、出身地の図書館は最新刊書を所蔵していることはわかった。

話は、ここで終わりにしたくはないのだが、最近無断転載禁止を宣言した言論人のブログがあり、そのブログの援護射撃をしたい気持ちになっているのだが、その管理人が拙ブログをひょっとすると敵視しているかもしれないため、ここでひとまず原稿を終えることとする。

以上

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2017.11.04 (Sat)

福田恆存「当用憲法論」  読み直す時が来た

恐らく、70歳より上の方でないと福田恆存という言論人をご存じないかと思う。
福田恆存「当用憲法論」について、3年前に着目され再評価が始まったようだ。

―― 参考情報 ――――――――――

福田恆存「当用憲法論」の卓見 --- 井本 省吾
http://agora-web.jp/archives/1626181.html

福田恆存の常識論は安倍晋三氏のユートピア 池田信夫
http://ikedanobuo.livedoor.biz/archives/51923986.html#more

―――――――――――――――――

池田信夫は、「安倍首相のユートピア」というタイトルを掲げ、皮肉っている。
池田信夫は、安倍首相が福田恆存の信奉者に見えるからそう書いたのであろう。

これら二つの原稿が書かれたのは3年前。
先の衆議院選挙の結果、憲法改正の道筋が政権によって拓かれると予想するのであれば(おそらくそうなるだろうが)、福田恆存が当時何を語っていたのかを理解することは、安倍首相がイメージする憲法改正論を理解することに繋がる。

そこで、本稿では、福田恆存「当用憲法論」からエッセンスを紹介させていただく。

ただし、福田恆存の「当用憲法論」、哲学書みたいな書きぶりのため、いささか難解である。読破する気力なくして、護憲派との論争に勝利できるとは思えない。が、難解だと聞いてがっかりする必要はない。
幸いにして、読むべき箇所は限定的である。ポイントとなる箇所をさっと見つけ、要点を把握できれば全体の骨格が見えてくる。そういう書きぶりなのだ。

当用憲法論は、文春文庫の「日本を思ふ」という文庫本に収録されている。
特に重要と思われる箇所のみ転載させていただく。

||||| ここから引用開始 |||||||||||||||||||||||||||||||||||

日本を思ふ  福田恆存著 

当用憲法論

284頁
私が最初に現憲法は改正出来ないと言ったのは次の理由に拠ります。なるほど第九六条には「この憲法の改正は、各議院の総議員の三分の二以上の賛成で、国会が、これを発議し、国民に提案してその承認を経なければならない。この承認には、特別の国民投票又は国会の定める選挙の際行はれる投票において、その過半数の賛成を必要とする」とあって、この手続きさへ踏めば改正出来る様になってゐる。処が、この憲法前文には右の九六条を全く空文化してしまふ様な一節が用意してあるのです。それはかうなってをります。「これは人類普遍の原理であり、この憲法は、かかる原理に基くものである。われらは、これに反する一切の憲法、法令及び詔勅を排除する」と明記されてゐる。この「かかる原理」とは前を受けてゐるものであって、基本的人権、戦争放棄、主権在民を意味します。この3点に反する改正が出来ないとすれば、「改憲派」はもはや沈黙する以外に手は無いではないか。

中略

欽定憲法にも第七三条に改定の場合の手続が規定されてをり、それに則って現行憲法が生まれたということになってをりますが 、果たしてそれは事実かとい

285頁
ふ問題であって、私はそれに疑問を呈出して置いたのです。なるほど欽定憲法の改訂は自らの規定する第七三条の手続きに随って「合法的」に行はれたに違ひない。が、この場合、見逃し得ぬ事実が二つあります。その第一は手続きさへ良ければ、改定の内容は如何様にも為し得るかといふ事です。下手な譬えで恐縮ですが、一つ一つは致命傷にならぬ、随って死刑に値しない傷を百も二百も加へる事によって人を死に至らしめた場合、その加害者の行為は致命傷を与へなかったからといって殺人とは呼び得ないとは言へますまい。憲法の改定には自づと限界がある筈です。先に現行憲法について、その前文が第九六条を空文化してゐると言ったのはその意味においてです。欽定憲法のうちには、その前文による禁縛は何処にも見当たりませんが、憲法発布直後には、「茲ニ大憲ヲ制定シ朕ガ後嗣及臣民及臣民ノ子孫タル者ヲシテ永遠ニ循行スル所ヲ知ラシム』とあります。これは憲法発布勅語の一節であって、憲法そのものではないと言ふ者があるとしても、それは単なる言ひ抜けに過ぎません。

のみならず、仮りに勅語のうちに右の一節が無かったとしても、事、憲法に関する限り、改定に限界がある事は古今東西を問はず常識として認められてゐる事であります。尤もそれは常識であればこそ、それを無視する横紙破りや、形式論理を楯に取って改定無限界説を主張する憲法学者が出て来る處れ無しとは言へない。だからこそ現行憲法はその機先を制して第九六条を空文化する手を打って置いたのでせう。それは自らが欽定憲法を改定する時の手続きに後ろめたさを感じてゐた事の何よりの証拠であり、また同じ

286頁

横紙破りをやられたのでは敵はないといふ警戒心の現れでもあるとも言へない事は無い。

中略

 欽定憲法改定の際に見逃し得ぬ第二の事実は、独立国に非ざるものに、憲法を制定する権利も資格も有り得ないといふ事であります。仮りに占領軍が押附けたのではなく、自発的に草案を作り、自発的に制定したとしても、事態は同じです。この場合、「自発的」といふ言葉が既に意味を為さない。自発的であり得るなら被占領国ではないし、被占領中なら自発的ではあり得ないからです。こんな解り切った事に誰も気附かなかつた筈は無い。が、当時その事をはっきり口に出して反対した者は衆議院では六人しかをりませんでした。しかも、そのうち四人までが共産党の議員であり、野坂参三などは第九条にも反対し、軍隊を持たぬ独立国は考へられないとさへ言ってをります。

289頁

私は欽定憲法の復活を希望してゐるのではない。私にとって大事なのは欽定憲法そのものではなく、日本人の憲法意識なのであります。それに、私が復活を希望するまでもなく、欽定憲法は決して死滅してはをらず、理論上は生きてゐるのです。が、私はそのままで良いとは思ひませんし、放って置けば時間が解決するとも思ひません。

中略

断言しても良い、現行憲法が国民の上に定着する時代など永遠に来る筈はありません。

290頁

第一に、「護憲派」、を自称する人たちが、現行憲法を信用してをらず、事実、守ってさへもゐない。大江氏は覚えてゐるでせう、座談会で私が、「あなたの護憲は第九条の完全武装抛棄だけでなく、憲法全体を擁護したいのか」、と訊ねた時、氏は、「然り」、と答へた、続けて私が「では、あなたは天皇をあなた方の象徴として考へるか、さういうふ風に行動するか」、と反問したら、一寸考えこんでから、「さうは考へられない」、と答へた。記録ではその部分が抜けてをりますが、私はさう記憶してをります。或いは氏が黙して答へなかったので、それを否の意思表示と受け取ったのか、いづれにせよ改めて問ひ直しても恐らく氏の良心は否と答へるに違ひ無い。が、それでは言葉の真の意味における護憲にはなりません。大江氏は憲法を憲法なるが故に認めてゐるのではない、憲法の或る部分を認めてゐるのに過ぎず、また憲法を戦争と人権の防波堤として認めてゐるに過ぎないのです。


勿論、あらゆる法は防波堤的性格を持つものであり、多くの憲法は権力者に対する防波堤としての役割を果たしてゐる事も否定し得ない。しかし、その防波堤は青年だけが利用し得るものでもなければ、特定の個人だけが利用し得るものでもありません。自由平等、権利義務と同様、自分を守つてくれる同じ法が自分の利害に反する「敵」をも守つてくれるのです。基本人権の擁護は被治者にも治者にも適用されるのです。その点、「護憲派」は大きな勘違ひをしてゐる。「年寄りくたばれ」どころか、「岸殺せ」と叫んでも基本人権を脅してゐるとは考へないらしい。革命や民族解放の為の内戦は違憲とは考へないらしい。議事進行妨害も「護憲」の名において「護憲派」が行つてゐる。それ


291頁

といふのも、「護憲派」にとつて現行憲法は単なる防波堤の役割を果たしてゐるばかりでなく、将来政権を取る為の前進基地として好都合な手段だからであり、事実、彼等はさう公言してをります。正に当用憲法であります。「改憲派」が違憲的言動に走るのはまだしも、「護憲派」がこの有様で、どうして憲法の権威が守れるでせうか。誰がそれを真の護憲運動と認めるでせうか。


296頁

巷間憲法論議の最大の焦点は、その第九条でありませう、それについて私の考えを述べます。


第九条 日本国民は、正義と秩序を基調とする国際平和を誠実に希求し、国権の発動たる戦争と、武力による威嚇又は武力の行使は、国際紛争を解決する手段としては、永久にこれを放棄する。
前項の目的を達するため、陸海空軍その他の戦力は、これを保持しない。国の交戦権は、これを認めない。


297頁

この文章を読んで御覧なさい。多少とも言葉遣いに敏感な者なら、そこには自発的意思など毛ほども無いことが感じ取られるでせう。形式論理的には一応定言判断の形を踏んでをりますが、これは譬へば「銃をしまう!」という職業軍人の間に通用した命令形の変種であることは一目瞭然であります。またこれをどう解釈しても、自衛の為の軍隊なら許されるといふ余地は何処にも残されてはをりません。事実、吉田茂元首相は当時そうさう力説してをりました。


現在でも、公法研究者中略七割が同様の解釈をしてをり、第九条のままでも自衛隊の保持は差支無しといふのは二割しかおりません。後の一割が自衛隊を認める様、第九条を改めるべしといふー意見です。処で、この第九条を生んだ根本の考へ方は何処にあるかといふと、それは前文における次の一節です。


日本国民は、恒久の平和を念願し、人間相互の関係を支配する崇高な理想を深く自覚するのであって、平和を愛する諸国民の公正と信義に信頼して、われらの安全と生存を保持しようと決意した。われらは、平和を維持し、専制と隷従、圧迫と偏狭を地上から永遠に除去しようと努めてゐる国際社会において、名誉ある地位を占めたいと


298頁

思ふ。われらは、全世界の国民が、ひとしく恐怖と欠乏から免れ、平和のうちに生存する権利を有することを確認する。


これも変種の命令形であることは言ふまでもありませんが、それにしても「名誉ある地位を占めたいと思ふ」とは何といぢらしい表現か、悪戯をした子供が、母親から「こう言ってお父さんにあやまりなさい」と教へられている姿が眼前に彷彿する様ではありませんか。それを世界に誇るに足る平和憲法と見なす大江氏の文章感覚を私は疑います。「平和を愛する諸国民の公正と信義に信頼して、われらの安全と生存を保持しようと決意した」といふのも、いぢらしさを通り越して涙ぐましいと言ふほかは無い。この場合、「決意」といふ言葉は場違いでもあり滑稽でもあります。前から読み下してくれば、誰にしてもここは「保持させて下さい」といふ言葉を予想するでせう。

といふのは、前半の「平和を愛する諸国民の公正と信義に信頼して」といふのが途方も無い事実認識の過ちをおかしてゐるからです。


これは後に出てくる「平和を維持し、専制と隷従、圧迫と偏狭を地上から永遠に除去しようと努めてゐる国際社会」といふ一節についても言へるこ事です。例の座談会で、この虚偽、或はこの誤認を揶揄し、刑法や民法の如き国内法の場合、吾々は同胞に対してすら人間は悪を為すものだといふ猜疑を前提にして、成るべく法網を潜れぬ様に各条項を周到に作る、それなのに異国人に対しては、すべて善意を以って日本国を守り育ててくれるといふ底抜けの信頼を前提にするのはをか

299頁

しいではないかと言った。第一、それでは他国を大人と見做し、自国を幼稚園の園児並に扱ってくれと言ってゐる様なもので、それを麗々しく憲法に折り込むとは、これほどの屈辱は他にありますまい。処が小林氏は、あれは嘘でも何でも無い、当時は国連中心主義の思想があって、そこに集ったグループは反ファッシズムの闘争をした諸国と手を握り合って行かうといふき持ちだった、その諸国の正義に信頼しようといふ意味に解すべきだと答へました。

そもそも憲法の中に、猫の目のように変る国際政治の現状判断を織込み、それを大前提として各条項を定めるなど、どう考へても気違い沙汰です。私は小林氏が本気でさう言っているのか、これもまた欺瞞か、そのけぢめが附かなかったので黙ってをりましたが、もし小林氏が本気でさう考へてゐるなら、そして憲法学者といふのはその程度の歴史知識、国際政治観で済むものなら、随分気楽な職業だと思ひます。

中略

彼等が、「平和を愛する」人間である事も、「平和をい維持し」あらゆる悪を「地上から永遠に除去しようと努めてゐる」事も、やはり半面の真理であって、他の半面では、自分は出来るだけその善意を持ち続ける積りだが、何処かの国がその善意を忘れることもあり得るといふ程度の予想は立ててゐる、その予想が事実になる場合もあり、また善意を

300頁

持ち続ける自分の方が、ついそれを忘れる場合もあり、しかもいづれの場合も、両者共に善意を忘れたのは相手方だと思ひ込む、それが人間といふものです。さういふ「人間普遍の原理」に目を塞いで作ったのが、右に引用した現行憲法の前文であり、その帰結が第九条であります。


私は当時の日本の政治家がそれほど馬鹿だったとは思はないし、政治家といふ職業は憲法学者ほど気楽に出来るものとは思はない。改めて強調するまでもありますまいが、これは明らかに押附けられて仕方無く作った憲法です。如何にも腑甲斐無いとは思ひますが、当時の実情を考へれば、情状酌量出来ない事ではない。しかし、それならそれで事情を説明して、国民の前に一言詫びれば良いと思ひます。アメリカも公式に謝罪した方が宜しい。さうすれば吾々もさっぱりした気持ちで、それこそ自発的に、吾々の憲法に天下晴れて対面出来るでせう。今のままでは自国の憲法に対して、人前には連れて出られない妾の様な処遇しか出来ません。
尤も、それを平和憲法として誇っている人も沢山をりますけれど、それは其の人達が妾根性を持ち、事実、妾の生活をしているからに他なりません。

315頁

先に「蛇足までに」と申しましたが、現行憲法に権威が無い原因の一つは、その悪文にあります。悪文といふよりは死文といふべく、そこに起草者の、いや翻訳者の心も表情も感じられない。吾々が外国の作品を翻訳する時、それがたとへ拙訳であらうが、誤訳があらうが、これよりは遥かに実意の篭もった態度を以て行ひます。といふのは、それを翻訳しようと思ふからには、その前に原文に対する愛情があり、それを同胞に理解して貰はうとする欲望があるからです。それがこの当用憲法には聊かも感じられない。今更ながら欽定憲法草案者の情熱に頭が下がります。良く悪口を言はれる軍人勅諭にしても、こんな死文とは格段の相違がある。前文ばかりではない、当用憲法の各条項はすべて同様の死文の堆積です。こんなものを信じたり有り難がったりする人は左右を問はず信じる気になれません。これを孫子の代まで残す事によって、彼らの前に吾々の恥を晒すか、或はこれによって彼等の文化感覚や道徳意識を低下させるか、さういふ愚を犯すよりは、目的はそれぞれ異なるにせよ、一日も早くこれを無効とし、廃棄する事にしようではありませんか。そしてそれまでに、それこそ憲法調査会あたりで欽定憲法改定案を数年掛りで作製し、更に数年に亘って国民の意見を聴き、その後で最終的決定を行ふといふのが最善の策であります。憲法学上の合法性だの手続きだの、詰まらぬ形式に拘

316頁

はる必要は無い、今の当用憲法がその点、頗る出たらめな方法で罷り出て来たものなのですから。
(昭和四十年「潮」八月号)

||||| ここまで引用 |||||||||||||||||||||||||||||||||||||||

福田恆存は、常識論的視点から論点を示し、憲法についての、あるべき姿を導き出した。

中でも、「私は欽定憲法の復活を希望してゐるのではない。私にとって大事なのは欽定憲法そのものではなく、日本人の憲法意識なのであります。それに、私が復活を希望するまでもなく、欽定憲法は決して死滅してはをらず、理論上は生きてゐるのです。が、私はそのままで良いとは思ひませんし、放って置けば時間が解決するとも思ひません。…………断言しても良い、現行憲法が国民の上に定着する時代など永遠に来る筈はありません。第一に、「護憲派」、を自称する人たちが、現行憲法を信用してをらず、事実、守ってさへもゐない。…………」
この表現に私は圧倒された。

当用憲法論は五十年前に書かれたことに私は驚いている。現日本国憲法を当用憲法と名付け、その悪文ぶりをぶった切った心意気は、再評価されるべきだし、当時の護憲派との論争の切り口は、今日でも通用するレベルにある。
立憲民主党や共産党が反論しにくい箇所があるのはお気づきのことと思う。
拙ブログは、野党ないし野党議員に対し、質問主意書により質問できる制度が導入されるべきだと提言し続けている。審議拒否を繰り返し、批判を繰り返し、憲法を守っているとは思えない護憲派との、憲法改正論議に際し、野党ないし野党議員に対する質問主意書の適用は、有効な措置となるとの認識である。

そして、福田恆存の言葉には力がみなぎっている。てにをはを書き直して、明日の産経の寄稿欄に掲載されても(保守層の読者であれば)誰も違和感を感じまい。

話は変わるが、先日、ある書店の筑摩文庫コーナーにて、三島由紀夫の本が目立つ位置にて平積みされているのを見つけた。

折しも、衆議院選挙にて政権与党が改憲議席を維持した。衆議院は改憲勢力が大多数である。三島由紀夫と福田恆存が語ってきたことが、やっと手の届くところに来た感じである。憲法改正実現は戦後の終わりを意味することは明らかだ。

政治スケジュール的に、一歩一歩確実に憲法改正実現に向かうことを願う次第である。

以上


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