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2017.11.04 (Sat)

福田恆存「当用憲法論」  読み直す時が来た

恐らく、70歳より上の方でないと福田恆存という言論人をご存じないかと思う。
福田恆存「当用憲法論」について、3年前に着目され再評価が始まったようだ。

―― 参考情報 ――――――――――

福田恆存「当用憲法論」の卓見 --- 井本 省吾
http://agora-web.jp/archives/1626181.html

福田恆存の常識論は安倍晋三氏のユートピア 池田信夫
http://ikedanobuo.livedoor.biz/archives/51923986.html#more

―――――――――――――――――

池田信夫は、「安倍首相のユートピア」というタイトルを掲げ、皮肉っている。
池田信夫は、安倍首相が福田恆存の信奉者に見えるからそう書いたのであろう。

これら二つの原稿が書かれたのは3年前。
先の衆議院選挙の結果、憲法改正の道筋が政権によって拓かれると予想するのであれば(おそらくそうなるだろうが)、福田恆存が当時何を語っていたのかを理解することは、安倍首相がイメージする憲法改正論を理解することに繋がる。

そこで、本稿では、福田恆存「当用憲法論」からエッセンスを紹介させていただく。

ただし、福田恆存の「当用憲法論」、哲学書みたいな書きぶりのため、いささか難解である。読破する気力なくして、護憲派との論争に勝利できるとは思えない。が、難解だと聞いてがっかりする必要はない。
幸いにして、読むべき箇所は限定的である。ポイントとなる箇所をさっと見つけ、要点を把握できれば全体の骨格が見えてくる。そういう書きぶりなのだ。

当用憲法論は、文春文庫の「日本を思ふ」という文庫本に収録されている。
特に重要と思われる箇所のみ転載させていただく。

||||| ここから引用開始 |||||||||||||||||||||||||||||||||||

日本を思ふ  福田恆存著 

当用憲法論

284頁
私が最初に現憲法は改正出来ないと言ったのは次の理由に拠ります。なるほど第九六条には「この憲法の改正は、各議院の総議員の三分の二以上の賛成で、国会が、これを発議し、国民に提案してその承認を経なければならない。この承認には、特別の国民投票又は国会の定める選挙の際行はれる投票において、その過半数の賛成を必要とする」とあって、この手続きさへ踏めば改正出来る様になってゐる。処が、この憲法前文には右の九六条を全く空文化してしまふ様な一節が用意してあるのです。それはかうなってをります。「これは人類普遍の原理であり、この憲法は、かかる原理に基くものである。われらは、これに反する一切の憲法、法令及び詔勅を排除する」と明記されてゐる。この「かかる原理」とは前を受けてゐるものであって、基本的人権、戦争放棄、主権在民を意味します。この3点に反する改正が出来ないとすれば、「改憲派」はもはや沈黙する以外に手は無いではないか。

中略

欽定憲法にも第七三条に改定の場合の手続が規定されてをり、それに則って現行憲法が生まれたということになってをりますが 、果たしてそれは事実かとい

285頁
ふ問題であって、私はそれに疑問を呈出して置いたのです。なるほど欽定憲法の改訂は自らの規定する第七三条の手続きに随って「合法的」に行はれたに違ひない。が、この場合、見逃し得ぬ事実が二つあります。その第一は手続きさへ良ければ、改定の内容は如何様にも為し得るかといふ事です。下手な譬えで恐縮ですが、一つ一つは致命傷にならぬ、随って死刑に値しない傷を百も二百も加へる事によって人を死に至らしめた場合、その加害者の行為は致命傷を与へなかったからといって殺人とは呼び得ないとは言へますまい。憲法の改定には自づと限界がある筈です。先に現行憲法について、その前文が第九六条を空文化してゐると言ったのはその意味においてです。欽定憲法のうちには、その前文による禁縛は何処にも見当たりませんが、憲法発布直後には、「茲ニ大憲ヲ制定シ朕ガ後嗣及臣民及臣民ノ子孫タル者ヲシテ永遠ニ循行スル所ヲ知ラシム』とあります。これは憲法発布勅語の一節であって、憲法そのものではないと言ふ者があるとしても、それは単なる言ひ抜けに過ぎません。

のみならず、仮りに勅語のうちに右の一節が無かったとしても、事、憲法に関する限り、改定に限界がある事は古今東西を問はず常識として認められてゐる事であります。尤もそれは常識であればこそ、それを無視する横紙破りや、形式論理を楯に取って改定無限界説を主張する憲法学者が出て来る處れ無しとは言へない。だからこそ現行憲法はその機先を制して第九六条を空文化する手を打って置いたのでせう。それは自らが欽定憲法を改定する時の手続きに後ろめたさを感じてゐた事の何よりの証拠であり、また同じ

286頁

横紙破りをやられたのでは敵はないといふ警戒心の現れでもあるとも言へない事は無い。

中略

 欽定憲法改定の際に見逃し得ぬ第二の事実は、独立国に非ざるものに、憲法を制定する権利も資格も有り得ないといふ事であります。仮りに占領軍が押附けたのではなく、自発的に草案を作り、自発的に制定したとしても、事態は同じです。この場合、「自発的」といふ言葉が既に意味を為さない。自発的であり得るなら被占領国ではないし、被占領中なら自発的ではあり得ないからです。こんな解り切った事に誰も気附かなかつた筈は無い。が、当時その事をはっきり口に出して反対した者は衆議院では六人しかをりませんでした。しかも、そのうち四人までが共産党の議員であり、野坂参三などは第九条にも反対し、軍隊を持たぬ独立国は考へられないとさへ言ってをります。

289頁

私は欽定憲法の復活を希望してゐるのではない。私にとって大事なのは欽定憲法そのものではなく、日本人の憲法意識なのであります。それに、私が復活を希望するまでもなく、欽定憲法は決して死滅してはをらず、理論上は生きてゐるのです。が、私はそのままで良いとは思ひませんし、放って置けば時間が解決するとも思ひません。

中略

断言しても良い、現行憲法が国民の上に定着する時代など永遠に来る筈はありません。

290頁

第一に、「護憲派」、を自称する人たちが、現行憲法を信用してをらず、事実、守ってさへもゐない。大江氏は覚えてゐるでせう、座談会で私が、「あなたの護憲は第九条の完全武装抛棄だけでなく、憲法全体を擁護したいのか」、と訊ねた時、氏は、「然り」、と答へた、続けて私が「では、あなたは天皇をあなた方の象徴として考へるか、さういうふ風に行動するか」、と反問したら、一寸考えこんでから、「さうは考へられない」、と答へた。記録ではその部分が抜けてをりますが、私はさう記憶してをります。或いは氏が黙して答へなかったので、それを否の意思表示と受け取ったのか、いづれにせよ改めて問ひ直しても恐らく氏の良心は否と答へるに違ひ無い。が、それでは言葉の真の意味における護憲にはなりません。大江氏は憲法を憲法なるが故に認めてゐるのではない、憲法の或る部分を認めてゐるのに過ぎず、また憲法を戦争と人権の防波堤として認めてゐるに過ぎないのです。


勿論、あらゆる法は防波堤的性格を持つものであり、多くの憲法は権力者に対する防波堤としての役割を果たしてゐる事も否定し得ない。しかし、その防波堤は青年だけが利用し得るものでもなければ、特定の個人だけが利用し得るものでもありません。自由平等、権利義務と同様、自分を守つてくれる同じ法が自分の利害に反する「敵」をも守つてくれるのです。基本人権の擁護は被治者にも治者にも適用されるのです。その点、「護憲派」は大きな勘違ひをしてゐる。「年寄りくたばれ」どころか、「岸殺せ」と叫んでも基本人権を脅してゐるとは考へないらしい。革命や民族解放の為の内戦は違憲とは考へないらしい。議事進行妨害も「護憲」の名において「護憲派」が行つてゐる。それ


291頁

といふのも、「護憲派」にとつて現行憲法は単なる防波堤の役割を果たしてゐるばかりでなく、将来政権を取る為の前進基地として好都合な手段だからであり、事実、彼等はさう公言してをります。正に当用憲法であります。「改憲派」が違憲的言動に走るのはまだしも、「護憲派」がこの有様で、どうして憲法の権威が守れるでせうか。誰がそれを真の護憲運動と認めるでせうか。


296頁

巷間憲法論議の最大の焦点は、その第九条でありませう、それについて私の考えを述べます。


第九条 日本国民は、正義と秩序を基調とする国際平和を誠実に希求し、国権の発動たる戦争と、武力による威嚇又は武力の行使は、国際紛争を解決する手段としては、永久にこれを放棄する。
前項の目的を達するため、陸海空軍その他の戦力は、これを保持しない。国の交戦権は、これを認めない。


297頁

この文章を読んで御覧なさい。多少とも言葉遣いに敏感な者なら、そこには自発的意思など毛ほども無いことが感じ取られるでせう。形式論理的には一応定言判断の形を踏んでをりますが、これは譬へば「銃をしまう!」という職業軍人の間に通用した命令形の変種であることは一目瞭然であります。またこれをどう解釈しても、自衛の為の軍隊なら許されるといふ余地は何処にも残されてはをりません。事実、吉田茂元首相は当時そうさう力説してをりました。


現在でも、公法研究者中略七割が同様の解釈をしてをり、第九条のままでも自衛隊の保持は差支無しといふのは二割しかおりません。後の一割が自衛隊を認める様、第九条を改めるべしといふー意見です。処で、この第九条を生んだ根本の考へ方は何処にあるかといふと、それは前文における次の一節です。


日本国民は、恒久の平和を念願し、人間相互の関係を支配する崇高な理想を深く自覚するのであって、平和を愛する諸国民の公正と信義に信頼して、われらの安全と生存を保持しようと決意した。われらは、平和を維持し、専制と隷従、圧迫と偏狭を地上から永遠に除去しようと努めてゐる国際社会において、名誉ある地位を占めたいと


298頁

思ふ。われらは、全世界の国民が、ひとしく恐怖と欠乏から免れ、平和のうちに生存する権利を有することを確認する。


これも変種の命令形であることは言ふまでもありませんが、それにしても「名誉ある地位を占めたいと思ふ」とは何といぢらしい表現か、悪戯をした子供が、母親から「こう言ってお父さんにあやまりなさい」と教へられている姿が眼前に彷彿する様ではありませんか。それを世界に誇るに足る平和憲法と見なす大江氏の文章感覚を私は疑います。「平和を愛する諸国民の公正と信義に信頼して、われらの安全と生存を保持しようと決意した」といふのも、いぢらしさを通り越して涙ぐましいと言ふほかは無い。この場合、「決意」といふ言葉は場違いでもあり滑稽でもあります。前から読み下してくれば、誰にしてもここは「保持させて下さい」といふ言葉を予想するでせう。

といふのは、前半の「平和を愛する諸国民の公正と信義に信頼して」といふのが途方も無い事実認識の過ちをおかしてゐるからです。


これは後に出てくる「平和を維持し、専制と隷従、圧迫と偏狭を地上から永遠に除去しようと努めてゐる国際社会」といふ一節についても言へるこ事です。例の座談会で、この虚偽、或はこの誤認を揶揄し、刑法や民法の如き国内法の場合、吾々は同胞に対してすら人間は悪を為すものだといふ猜疑を前提にして、成るべく法網を潜れぬ様に各条項を周到に作る、それなのに異国人に対しては、すべて善意を以って日本国を守り育ててくれるといふ底抜けの信頼を前提にするのはをか

299頁

しいではないかと言った。第一、それでは他国を大人と見做し、自国を幼稚園の園児並に扱ってくれと言ってゐる様なもので、それを麗々しく憲法に折り込むとは、これほどの屈辱は他にありますまい。処が小林氏は、あれは嘘でも何でも無い、当時は国連中心主義の思想があって、そこに集ったグループは反ファッシズムの闘争をした諸国と手を握り合って行かうといふき持ちだった、その諸国の正義に信頼しようといふ意味に解すべきだと答へました。

そもそも憲法の中に、猫の目のように変る国際政治の現状判断を織込み、それを大前提として各条項を定めるなど、どう考へても気違い沙汰です。私は小林氏が本気でさう言っているのか、これもまた欺瞞か、そのけぢめが附かなかったので黙ってをりましたが、もし小林氏が本気でさう考へてゐるなら、そして憲法学者といふのはその程度の歴史知識、国際政治観で済むものなら、随分気楽な職業だと思ひます。

中略

彼等が、「平和を愛する」人間である事も、「平和をい維持し」あらゆる悪を「地上から永遠に除去しようと努めてゐる」事も、やはり半面の真理であって、他の半面では、自分は出来るだけその善意を持ち続ける積りだが、何処かの国がその善意を忘れることもあり得るといふ程度の予想は立ててゐる、その予想が事実になる場合もあり、また善意を

300頁

持ち続ける自分の方が、ついそれを忘れる場合もあり、しかもいづれの場合も、両者共に善意を忘れたのは相手方だと思ひ込む、それが人間といふものです。さういふ「人間普遍の原理」に目を塞いで作ったのが、右に引用した現行憲法の前文であり、その帰結が第九条であります。


私は当時の日本の政治家がそれほど馬鹿だったとは思はないし、政治家といふ職業は憲法学者ほど気楽に出来るものとは思はない。改めて強調するまでもありますまいが、これは明らかに押附けられて仕方無く作った憲法です。如何にも腑甲斐無いとは思ひますが、当時の実情を考へれば、情状酌量出来ない事ではない。しかし、それならそれで事情を説明して、国民の前に一言詫びれば良いと思ひます。アメリカも公式に謝罪した方が宜しい。さうすれば吾々もさっぱりした気持ちで、それこそ自発的に、吾々の憲法に天下晴れて対面出来るでせう。今のままでは自国の憲法に対して、人前には連れて出られない妾の様な処遇しか出来ません。
尤も、それを平和憲法として誇っている人も沢山をりますけれど、それは其の人達が妾根性を持ち、事実、妾の生活をしているからに他なりません。

315頁

先に「蛇足までに」と申しましたが、現行憲法に権威が無い原因の一つは、その悪文にあります。悪文といふよりは死文といふべく、そこに起草者の、いや翻訳者の心も表情も感じられない。吾々が外国の作品を翻訳する時、それがたとへ拙訳であらうが、誤訳があらうが、これよりは遥かに実意の篭もった態度を以て行ひます。といふのは、それを翻訳しようと思ふからには、その前に原文に対する愛情があり、それを同胞に理解して貰はうとする欲望があるからです。それがこの当用憲法には聊かも感じられない。今更ながら欽定憲法草案者の情熱に頭が下がります。良く悪口を言はれる軍人勅諭にしても、こんな死文とは格段の相違がある。前文ばかりではない、当用憲法の各条項はすべて同様の死文の堆積です。こんなものを信じたり有り難がったりする人は左右を問はず信じる気になれません。これを孫子の代まで残す事によって、彼らの前に吾々の恥を晒すか、或はこれによって彼等の文化感覚や道徳意識を低下させるか、さういふ愚を犯すよりは、目的はそれぞれ異なるにせよ、一日も早くこれを無効とし、廃棄する事にしようではありませんか。そしてそれまでに、それこそ憲法調査会あたりで欽定憲法改定案を数年掛りで作製し、更に数年に亘って国民の意見を聴き、その後で最終的決定を行ふといふのが最善の策であります。憲法学上の合法性だの手続きだの、詰まらぬ形式に拘

316頁

はる必要は無い、今の当用憲法がその点、頗る出たらめな方法で罷り出て来たものなのですから。
(昭和四十年「潮」八月号)

||||| ここまで引用 |||||||||||||||||||||||||||||||||||||||

福田恆存は、常識論的視点から論点を示し、憲法についての、あるべき姿を導き出した。

中でも、「私は欽定憲法の復活を希望してゐるのではない。私にとって大事なのは欽定憲法そのものではなく、日本人の憲法意識なのであります。それに、私が復活を希望するまでもなく、欽定憲法は決して死滅してはをらず、理論上は生きてゐるのです。が、私はそのままで良いとは思ひませんし、放って置けば時間が解決するとも思ひません。…………断言しても良い、現行憲法が国民の上に定着する時代など永遠に来る筈はありません。第一に、「護憲派」、を自称する人たちが、現行憲法を信用してをらず、事実、守ってさへもゐない。…………」
この表現に私は圧倒された。

当用憲法論は五十年前に書かれたことに私は驚いている。現日本国憲法を当用憲法と名付け、その悪文ぶりをぶった切った心意気は、再評価されるべきだし、当時の護憲派との論争の切り口は、今日でも通用するレベルにある。
立憲民主党や共産党が反論しにくい箇所があるのはお気づきのことと思う。
拙ブログは、野党ないし野党議員に対し、質問主意書により質問できる制度が導入されるべきだと提言し続けている。審議拒否を繰り返し、批判を繰り返し、憲法を守っているとは思えない護憲派との、憲法改正論議に際し、野党ないし野党議員に対する質問主意書の適用は、有効な措置となるとの認識である。

そして、福田恆存の言葉には力がみなぎっている。てにをはを書き直して、明日の産経の寄稿欄に掲載されても(保守層の読者であれば)誰も違和感を感じまい。

話は変わるが、先日、ある書店の筑摩文庫コーナーにて、三島由紀夫の本が目立つ位置にて平積みされているのを見つけた。

折しも、衆議院選挙にて政権与党が改憲議席を維持した。衆議院は改憲勢力が大多数である。三島由紀夫と福田恆存が語ってきたことが、やっと手の届くところに来た感じである。憲法改正実現は戦後の終わりを意味することは明らかだ。

政治スケジュール的に、一歩一歩確実に憲法改正実現に向かうことを願う次第である。

以上


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05:33  |  言論人  |  トラックバック(1)  |  コメント(2)

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護憲派を打ち破る為に

福田先生の聡明振りには敬服いたしますね。現代の知識人のレベルでは足元にも及ばないでしょうね(無論、三島由紀夫にも)。

昭和期を代表する文芸評論家の巨匠であり、保守派の代表論客、重鎮だけあって、相当な知識量と論理的思考力を兼ね備えていたのではないかと思います。

そうでなければ、現行憲法の欺瞞振りに、情報伝達、入手手段に乏しかった、半世紀以上も前に気付いている等という事は有り得なかったでしょう(三島も同様に気付いていましたから、すごいものですね)。

何より、ここまで的確に現行憲法の問題を、歴史、文化、哲学(思想)的経緯を合わせて論じる事ができる者は、知識人層を含めて僅かだったと思いますね(東大教授クラスでも僅か)。

左派の代表論客(丸山真男、宮沢俊儀等)も何人か読んでみた事はありますが、左派特有の「特殊用語」や「侮日感情」が染み出ている為、読むに堪えませんでしたね。

ただ、護憲派(一部、占領憲法肯定の改憲派も含む)の理論を打ち破る為には、福田ら保守知識人の「論考」に加えて、左派の知識人(?)の「論考」も必要になると思います。

どういう事かというと、やはり「強固な岩壁」となっている憲法前文と9条の改正の為には、左派の理論の欺瞞性、矛盾、形骸化、有名無実振りを指摘し、論破(護憲派が反芻できない理論の構築)していかなければならないからです。

そうしなければ、護憲派の側は、詭弁を用いてでも、占領憲法を意地でも正当化仕様としてくるでしょうし、我々はそれに打ち勝たなければなりませんが、激しい攻勢の前にスタミナ切れを起こす可能性が高いです。

やはり、そうした場合に頼りになるのが「保守の正しい思想と知識」、そして「護憲派を論破できるだけの力強い論」になるでしょう。

ただ、保守系の知識人については、大学を含めてあまり取り上げられることが無い為、有力な人物を探すのが困難ですね。この問題を何とかしたいものだと思いますね。
西 |  2017.11.06(月) 02:09 | URL |  【編集】

Re: 護憲派を打ち破る為に

> 福田先生の聡明振りには敬服いたしますね。現代の知識人のレベルでは足元にも及ばないでしょうね(無論、三島由紀夫にも)。
>
> 昭和期を代表する文芸評論家の巨匠であり、保守派の代表論客、重鎮だけあって、相当な知識量と論理的思考力を兼ね備えていたのではないかと思います。
>
> そうでなければ、現行憲法の欺瞞振りに、情報伝達、入手手段に乏しかった、半世紀以上も前に気付いている等という事は有り得なかったでしょう(三島も同様に気付いていましたから、すごいものですね)。
>
> 何より、ここまで的確に現行憲法の問題を、歴史、文化、哲学(思想)的経緯を合わせて論じる事ができる者は、知識人層を含めて僅かだったと思いますね(東大教授クラスでも僅か)。
>
> 左派の代表論客(丸山真男、宮沢俊儀等)も何人か読んでみた事はありますが、左派特有の「特殊用語」や「侮日感情」が染み出ている為、読むに堪えませんでしたね。
>
> ただ、護憲派(一部、占領憲法肯定の改憲派も含む)の理論を打ち破る為には、福田ら保守知識人の「論考」に加えて、左派の知識人(?)の「論考」も必要になると思います。
>
> どういう事かというと、やはり「強固な岩壁」となっている憲法前文と9条の改正の為には、左派の理論の欺瞞性、矛盾、形骸化、有名無実振りを指摘し、論破(護憲派が反芻できない理論の構築)していかなければならないからです。
>
> そうしなければ、護憲派の側は、詭弁を用いてでも、占領憲法を意地でも正当化仕様としてくるでしょうし、我々はそれに打ち勝たなければなりませんが、激しい攻勢の前にスタミナ切れを起こす可能性が高いです。
>
> やはり、そうした場合に頼りになるのが「保守の正しい思想と知識」、そして「護憲派を論破できるだけの力強い論」になるでしょう。
>





福田恆存については数年前から読んでおりましたが、今の時代の政治ブログで引用するほど、重要かつ現実的なことを述べていたことを、当用憲法論を読んでいくうちに気づき、出稿しました。

> ただ、保守系の知識人については、大学を含めてあまり取り上げられることが無い為、有力な人物を探すのが困難ですね。この問題を何とかしたいものだと思いますね。

政治ブロガーが担うべきことではないかと考えます。
管理人 |  2017.11.06(月) 17:44 | URL |  【編集】

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2017/11/04(土) 18:34:20 | 雨上がりの散歩

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