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2017.05.15 (Mon)

キリスト教的価値観でみて「皇室祭祀」は宗教活動にあたるのか

アメリカ国務省そしてGHQが、キリスト教的価値観で勘違いした結果、神道指令が出され、日本国憲法が制定され、現時点で、神道はキリスト教から「国家神道」とレッテル貼りされ攻撃対象とされている。

また、拙ブログはキリスト教的価値観で政教分離を語る問題
http://sokokuwanihon.blog.fc2.com/blog-entry-470.html

にて、

GHQの勘違いが証明され
かつ、アメリカ国内での政教分離実態が日本のキリスト教会が主張しているものほど厳格でないこと
かつ、日本の神道が、キリスト教ほど侵略的でも攻撃的でも排他的でもないこと
が確認されたことによって、
日本のキリスト教会の政治的主張(靖国・政教分離問題)は、完全に正統性を失ったと考えるに至った。

その前提で、標記「天皇の祭祀は『宗教的活動』に当たるのか?」について、確実に言えることがある。

少なくとも、
教会施設において政教分離的でない政治活動が常態化し
神道を侵略的、攻撃的、排他的とみなしてきた
キリスト教会に、神道や政教分離問題を批判する(道理的)資格がないことである。


我々日本人には、有史以来続く、宮中祭祀の伝統がある。

―― 参考情報 ――――――――――

宮中三殿 -宮中祭祀神道の意義-
http://www.nippon-bunmei.jp/topics/turedure/%e3%80%9012%e3%80%91-%e5%ae%ae%e4%b8%ad%e4%b8%89%e6%ae%bf%e3%80%80%ef%bc%8d%e5%ae%ae%e4%b8%ad%e7%a5%ad%e7%a5%80%e7%a5%9e%e9%81%93%e3%81%ae%e6%84%8f%e7%be%a9%ef%bc%8d.html

―――――――――――――――――

私は問いたい。
天照大御神の時代、古事記が編纂された時代、「政教分離」なる政治用語は存在したのか?

あるはずもない。

もう我々は、キリスト教的価値観で、神道、皇室祭祀、政教分離を語る必要はないのである。

神道界のすべての混乱は、GHQ占領後、キリスト教的価値観で、神道、皇室祭祀、政教分離を扱おうとしたことに起因するのである。




「天皇の祈りはなぜ簡略化されたか  宮中祭祀の危機」において、著者斎藤吉久は、天皇の祭祀は「宗教的活動に当たらない」としている。

||||| ここから引用開始 |||||||||||||||||||||||||||||||||||

138~139頁

血縁的、地縁的共同体を信仰の母体とする神道にはもともと布教の概念がありません。宮中祭祀はあくまで儀式であって、信者拡大の意図がありません。皇室は宗教団体ではありません。国民の信教の自由を圧迫しようがないのです。天皇の祭祀は「国はいかなる宗教的活動もしてはならない」(憲法二十条三項)と憲法が規定する「宗教的活動」には当たりません。

139頁

もし宮中祭祀が宗教的意義を持ち、神道を援助、助長、促進し、他宗教を圧迫、干渉すると本気で考えるのなら、比叡山延暦寺で開宗以来、毎春、行われる天台密教再興の秘法「御衣加持御修法」に際して、天皇の使いである勅使に天皇の衣(御衣)を運ばせることにも、二○○五年春に亡くなった教皇ヨハネ・パウロ二世の追悼ミサに天皇の名代として皇太子が参列したことにも、抗議の声を上げなければなりませんが、そのような原理主義は誰も支持しないでしょう。

中略

ローマ法王ベネデイクト十六世が、二○○六年十二月、宗教的和解のためにトルコのイスタンブールにあるスルタン・アフメット寺院、通称「ブルー・モスク」を表敬し、崇高な祈りを捧げられたことは、世界の多くの共感を呼びましたが、日本の天皇は異なる多様な宗教への経緯を一千年以上も前から示してこられました。

||||| ここまで引用 |||||||||||||||||||||||||||||||||||||||

そのうえで、「政教分離はキリスト教の問題である」と結論づけている。



私は、ものの道理を書いている。
糺されるべきは、勝手気ままに政治活動してきたキリスト教側にあることがはっきりした以上、行き過ぎた政治活動を改めないのであれば、キリスト教が批判されることは仕方がないことである。

同時に、教会施設内で、行き過ぎた政治活動をやめさせるようとする、牧師、司祭、信者が現れないことも問題としなくてはならない。拙ブログを読まれている読者の中でクリスチャンの方がおられるなら、もしその教会で反日政治集会が日常茶飯事のように行われ、信者のあなたがそれを阻止することができず、それを批判しないなら、あなたはその教会の会員であることをやめるべきだ。

私はある牧師にこう質問したことがある。
「なぜこの教会は、政治活動だらけであるのかと。」
その牧師は、当時の私に明確に回答できなかった。

そういう私は、日本のキリスト教会は既に本来のキリスト教ではないのではないか?という疑問を持ちつつある。

それは、キリスト生誕直後、キリスト復活直後、宗教改革直後、それぞれの時代に本来とは異なる道筋に入ってしまったような気がする?

陰謀論の本の読み過ぎかもしれないが、あのローマ教皇庁も、いつの間にか、変な人たちが支配する宗教団体に見えてしまうのである。

うまくは説明できないが、ニーチェのアンチクリスト、現代語訳「キリスト教は邪教です」は、本来の教義から変質した実態を分析した名著と考えるのである。

キリスト教は邪教です

以上

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2017.05.15 (Mon)

キリスト教的価値観で政教分離を語る問題

前稿では、アメリカ政府の就任式、国葬等が、政教分離を言いだした?本家本元?にしては、日本国で行われている実態ほど、厳格な政教分離実態にないことを説明した。

―― 参考情報 ――――――――――

アメリカ国務省とGHQが神道を誤解したのか?それとも…… ※1
http://sokokuwanihon.blog.fc2.com/blog-entry-464.html

[靖国・政教分離問題] 日本のキリスト教関係者はアメリカの「勘違い」を鵜呑みにした?…… ※2
http://sokokuwanihon.blog.fc2.com/blog-entry-469.html

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ここで、拙ブログの仮説を確認しておきたい。

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仮に、「靖国問題に取り組む日本のキリスト教組織ならびに信者」がいたとして
そのキリスト教の教団の本拠地がアメリカにあった、あるいはアメリカのキリスト教と教義的に同一であるとして

GHQの勘違いが証明され…※1
かつ、アメリカ国内での政教分離が彼らが日本国内で主張しているものほど厳格でないこと…※2
かつ、日本の神道が、キリスト教ほど侵略的でも攻撃的でも排他的でもないこと…※3
が証明された場合

彼らの政治的主張(靖国・政教分離問題)は、完全に正統性を失うのではないか?(仮説)

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既に、※1、※2については、根拠となりえそうな情報の所在を示した。

とりあえず、本稿では、未検討の※3について検証を試みる。


日本の神道が、キリスト教ほど侵略的でも攻撃的でも排他的でもないこと、このことを説明することは左程難しくない。そういうことを説明する文献が極端に少ない。ただそれだけのことである。

根拠として私は5つ挙げたい。

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■根拠1 キリスト教が一方的に神道を批判、攻撃
■根拠2 神道には教典がない
■根拠3 神道は布教活動をしない
■根拠4 神道の多様性
■根拠5 神道には他宗教を批判、排斥する意図がない

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一つ一つ解説を試みる。


■根拠1 キリスト教が一方的に神道を批判、攻撃

キリスト教関係者ならびに信者は、「国家神道」を批判するが、神道はキリスト教を批判してきた訳ではない。
そもそもそういうことをしてこなかったのである。
それに対し、キリスト教信者たちがやったことは、戦国時代の寺社破壊(特に九州地方)、島原の乱での寺社破壊、戦後の靖国問題、神社訴訟である。政教分離については、神道に対することさら差別的な厳格さを、(キリスト教信者)藤林最高裁長官の判決文「追加反対意見」に見ることができる。


■根拠2 神道には教典がない

説明するまでもないことだが、神道には教典がない。これに対しキリスト教には聖書がある、キリスト教は異端への追及が厳しく、かつ神学という学問もあり、異端を含め、キリスト教が絶対的な宗教であることを証明することにこだわってきた歴史がある。


■根拠3 神道は布教活動をしない

説明するまでもないことだが、神道には教典がない。対して、キリスト教は、日常的に布教を行っている。牧師、司祭がそうしようと語ってきた。我が家にまで、布教目的で家族連れで訪問されるキリスト教信者もおられる。

「天皇の祈りはなぜ簡略化されたか 宮中祭祀の危機」(斎藤吉久)では、大航海時代、荒っぽい布教活動があったと書いてある。

||||| ここから引用開始 |||||||||||||||||||||||||||||||||||

104頁
「全世界に福音を述べ伝えなさい」というイエスの言葉と、ポルトガルとスペインの両国王に対して、新たに領有した地方に宣教師を送り、カトリック信仰の弘布を勧告した教皇アレクサンドル十六世の一四九三年の勅書に基づいて、大航海時代に荒っぽい世界布教を展開したのがキリスト教です(高瀬弘一郎『キリシタン時代の研究』岩波書店、一九七七など)が、日本の神道には布教の概念すらありません。それなのに両者を同一視し、神道を「侵略的」と考えたところに間違いの出発点があるのだろう、と私は考えます。

||||| ここまで引用 |||||||||||||||||||||||||||||||||||||||


■根拠4 神道の多様性

「天皇の祈りはなぜ簡略化されたか 宮中祭祀の危機」(斎藤吉久)で、神社の多様性が書かれている。
一方、キリスト教で神社を取り入れたものはあるのだろうか?ということになるのである。

||||| ここから引用開始 |||||||||||||||||||||||||||||||||||

136~137頁

神社とひとくちに行っても、自然崇拝もあれば祖先崇拝もある。皇帝崇拝も、義人信仰もあります。仏教やキリスト教から見れば、一つの宗教体系かもしれませんが、そのように断定するにはあまりに多様な、異なる信仰が一つの境内に共存しています。
境内の外に目を転じれば、古代朝鮮の遺民が建てた古社もあれば、仏僧をまつる神社もあります。キリシタンの神社さえあります。いずれもみな、れっきとした神社です。
たとえば「長崎くんち」で有名な長崎市の諏訪神社の本殿にいっしょにまつられている森崎神社には、知られざる「キリシタン合祀説」があります。

キリスト教はヨーロッパ大陸に浸透していく過程で、「邪教の巣窟」である森を破壊し、ゲルマンの聖樹を伐採したあとに教会を建てたといわれますが、森崎神社もまず最初に岬に鎮まる森のなかの神社として存在していて、それがキリスト教の伝来後、キリシタンによって破壊され、その跡地に教会が建てられたのではないか。そのあと禁教で教会が破壊され、今度はキリシタンが追憶・慰霊などの目的で祠をおき、やがて諏訪神社が再興されたときに隠れキリシタンの信仰の隠れ蓑としての意味もふくめて、同じ社殿に祀られたのではないか、と考えられているのです。
あくまで推測ですが、「キリシタンの神社」は突拍子もないものではありません。
遠藤周作の小説『沈黙』の舞台といわれる長崎市外海町(旧西彼杵郡)の海を臨む山中には、宣教師ジワンをまつるとされる枯松神社がひっそりと鎮まっています。

天皇の祈り

||||| ここまで引用 |||||||||||||||||||||||||||||||||||||||


■根拠5 神道には他宗教を批判、排斥する意図がない

戦後、キリスト教会は、在日信者?の激増等もあり、政治活動の一大拠点と化した。西早稲田2-3-18は全国各地のキリスト教界の上部機関が集結しているようだ。
さて、このキリスト教会での政治活動、在日の指紋押捺廃止にとどまらず、神社訴訟、靖国問題、慰安婦問題などに係わっている。牧師が活動方針を伝え、信者が募金し、活動が維持されているのだ。政治活動目的での募金袋もあるようだ。
これに対し、神社はどうか?各地のキリスト教会から目の敵にされてきた靖国神社社務所はキリスト教を公然と批判したのであろうか?訴訟までしたのであろうか?ということなのである。

以上、5つの根拠から、日本の神道は、日本のキリスト教よりも攻撃的ではないことが確認されたと考える。

要するに、神道界が抑制していることをいい事に、日本のキリスト教界は調子に乗ってやり過ぎた!と言いたいのである。

つまり、GHQが「国家神道」とレッテル貼りし、解体し弾圧しようとした「神道」はキリスト教ほど、攻撃的ではないことになる。

見方を変えると、キリスト教会での政治活動の方が、(信教の自由が保障されていることをいいことに)、総じて反日的である点において、政教分離原則を逸脱している可能性が出てきたのである。


すなわち、

GHQの勘違いが証明され…※1
かつ、アメリカ国内での政教分離が彼らが日本国内で主張しているものほど厳格でないこと…※2
かつ、日本の神道が、キリスト教ほど侵略的でも攻撃的でも排他的でもないこと…※(前述での説明)
が確認されたことによって、

日本のキリスト教会の政治的主張(靖国・政教分離問題)は、完全に正統性を失ったと考えるのである。

以上

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