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2017.02.01 (Wed)

皇室秘密資産争奪戦からわかること

終戦後、米英両政府と「スイス政府、スイスの赤十字国際委員会」が、皇室財産を巡って、4年間も争奪戦を演じ、どういう経緯かはわからないが、「スイス政府、スイスの赤十字国際委員会」が勝利したことが、十数年前に報道された。



「天皇家の経済学 あなたの知らない『天皇家』のお金の秘密」(吉田祐二)から当該箇所を引用する。

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134頁

「天皇家の隠し資産」については戦後、さまざまな形で伝えられてきた。
戦後50年以上経ってから判明したものに、昭和天皇の皇后が終戦直前にスイスの赤十字国際委員会(ICRC)に「1千万スイスフラン」を寄付したという事実がある。

135~136頁
幣制13年(2001)8月、共同通信をはじめ各メデイアで報道された。ここでは『熊本日日新聞』からの記事を転載する。

赤十字に33億相当 「昭和天皇の皇后寄付」全容判明 終戦直前提示 49年、秘密裏に送金

【ジュネーブ13日共同】日本が一九四五年八月の終戦直前、スイスの赤十字国際委員会(ICRC)に対し、皇后名で一千万フランの巨額寄付を提示。連合国の対日政策決定機関である極東委員会が禁止決定を出したものの、赤十字がこれを覆して戦後の四九年、秘密裏に送金が実行された経緯が十三日、スイス政府やICRCの公文書で分かった。
寄付は横浜正金銀行(旧東京銀行の前身)スイス国立銀行に保有し「日本の秘密口座」と呼ばれた「特別勘定」から拠出された。日本が皇后名で寄付を申し出た事実は英公文書で確認されているが、その動機は不明。公文書は米英両国にスイス、ICRCを巻き込んだ送金実行までの四年間にわたる「攻防」の詳細を明らかにしている。
一千万スイスフランは現在のレートで約七億円。当時と現在のスイスフランの購買力を単純比較すると約三十三億円に上る。
スイス政府は前日の十六日、米英などとの合意に基づきスイス国内の日本資産を凍結していた。特別感情におさめられていたのは「本来は米英捕虜の待遇改善を目的に送金したカネ」だとして、寄付の形で動かすことを拒もうとする米英と、寄付の正当性を主張するスイス政府、ICRCが対立した。
この紛争は四六年六月、極東委員会と連合軍総司令部(GHQ)にゆだねられた。極東委員会は同年十月「ICRCの主張に根拠はない」として送金禁止を決定。しかし、ICRCは米国の弁護士を雇い、巻き返しに成功。米国務省は四九年三月、スイス政府の裁量を認めて送金に同意、英国も四九年五月「所有権の主張」を撤回した。
(『熊本日日新聞』平成13年8月13日付)

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既に、戦時中から秘密口座は存在していた。その秘密口座は、解釈的には、現時点において、憲法8条の規定そして皇室経済法の適用対象外(GHQが関知していなかった点において)ということになるだろう。(解釈として!)

―― 参考情報 ――――――――――

皇室秘密資産が発生した経緯について
http://sokokuwanihon.blog.fc2.com/blog-entry-323.html

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この記事、非常に、読み応えあるというか、非常に含蓄に富んでいる。この記事を書いた記者はかなりやり手とみていい。

スイス政府の外交的実力、私は知らない。が、皇室財産争奪戦で米英政府に勝利した。
皇室財産は、スイス政府を必死にさせるほどの金額だったのは、対応経緯的に間違いない。


不思議なことに、あれだけ各国をマメに訪問する安倍首相が、なぜかスイスを訪問しない。スイス首脳との会談もほとんどない。理由はわからない。

そのスイスに、1年前に、安倍首相のブレーン、本田悦朗がスイス大使として転出した。

―― 参考情報 ――――――――――

安倍首相の経済政策ブレーン、スイス大使に異例の転出 本田悦朗内閣官房参与
http://www.sankei.com/politics/news/160311/plt1603110032-n1.html

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本田大使は、小和田某の悪事を知らされ、その処置に動いた可能性がある。
それ以前は、どうだったか?野放しだった???ということになるかもしれない。


私は、スイス政府の外交的実力を侮っているのではない。米英両政府相手に、かような経緯で4年間も争奪戦をやって、外交的実力があるのかないのかはっきりしない、スイス政府の裁量が通った経緯において、どんな「政治力」が働いてそうなったのか?考えてしまうのである。

安倍首相がほとんど外交対応しない、スイス政府が本気を出して、米英政府に外交的に勝利した、政治力が一体何物なのか、分析・特定したい気になったのである。

上述の記事は、「米英両政府に外交的に勝利しうる存在」を暗示しているのである!

米英両政府は、「米英捕虜の待遇改善を目的に送金したカネ」だと解釈して、皇室財産を簒奪しようとしたようだ。
不思議なのは、「ICRCが米国の弁護士を雇い、巻き返しに成功した」ことである。一介の弁護士にそんな芸当ができるのか?肩書は弁護士であって、米英両政府の上に君臨する方、すなわち、ロックフェラーでもなく、ロスチャイルドでもなく、ロンドン・シテイでもなく、スイス銀行頭取でもない、世界規模での各界の問題について調整力を託されている方に、この弁護士は国際法の法理を駆使、相談、最終的に米英両政府が折れざるを得なかったと、私は推定する。


世界規模での各界の問題について調整力を託されている方とは、肩書を書かなくてもわかるだろう。

今も昔も、ただ一人、おられる方である。銀行業務も兼ねておられる。

そこに寄付すれば………………ということではないかと。


ここで、靖国神社とGHQとの関係を参照したい。

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https://ja.wikipedia.org/wiki/%E9%9D%96%E5%9B%BD%E7%A5%9E%E7%A4%BE

戦後、GHQは1945年12月15日に神道指令を発布した[37]。
1947年11月には日本遺族厚生連盟が発足、1953年には日本遺族会へと発展した[37]。
戦後は、政教分離政策の推進により靖国神社は国家管理を離れて宗教法人となり日本政府との直接的な関係は無くなったものの、軍人を祭神として祀る点や公職に就く者の参拝とそれに伴う玉串料の奉納等が批判され、様々な問題が生じている(詳しくは「靖国神社問題」を参照)。
靖国神社の存続とカトリック教会[編集]
「パトリック・バーン」を参照
終戦後も靖国神社が存続したことについて、以下のような逸話が語られている[38]。戦後に日本を占領したGHQは、1945年(昭和20年)、靖国神社を焼き払いドッグレース場を建設する計画を立てていたが、賛否両論が巻き起こり収拾が付かなくなっていた。そこでローマ教皇庁代表であり上智大学学長でもあったブルーノ・ビッテル(Bruno Bitter、英語読みでビッターとなっている場合あり)神父とメリノール宣教会のパトリック・バーン神父に意見を求めることになった(しかし、逸話と異なり、実際はビッテルは上智大学の学長になったことは一度もなく[注 10]、占領期の教皇庁の代理人でもなかった。日本における教皇庁の代理人は駐日教皇使節パオロ・マレーラであった[39])。ビッテル神父は「いかなる国家も、その国家のために死んだ戦士に対して、敬意を払う権利と義務があると言える。それは、戦勝国か、敗戦国かを問わず、平等の真理でなければならない。」「靖国神社を焼却する事は、連合国軍の占領政策と相容れない犯罪行為である。」[38]と述べ、次の言葉で締め括った。
「靖国神社が国家神道の中枢で、誤った国家主義の根源であるというなら、排すべきは国家神道という制度であり、靖国神社ではない。我々は、信仰の自由が完全に認められ、神道・仏教・キリスト教・ユダヤ教など、いかなる宗教を信仰するものであろうと、国家のために死んだものは、すべて靖国神社にその霊をまつられるようにすることを、進言するものである。」
この進言により靖国神社は焼き払いを免れたという[38]。バーン神父もビッテル神父と同趣旨の進言をした。さらに1951年(昭和26年)、ローマ教皇庁はあらためて1936年(昭和11年)の「祖国に対する信者のつとめ」訓令を再確認している[36]。
マーク・R・マリンズは、こうしたカトリック神父らが靖国神社を救済したという通説は「半分だけ真実」であり、当時の資料からははるかに複雑な経緯がみられると指摘している[39]。通説に反して、GHQは、1945年(昭和20年)、靖国神社を焼き払いドッグレース場を建設する計画を立ててはいなかった。米国国務省は1944年3月15日付けの覚書「日本―信仰の自由 Japan: Freedom of Worship」[40]で、次のような勧告を行っている[41]。
「. . . 第三は靖国神社や明治神宮、乃木神社のような近年設立された国家的英雄を祭る神社である。第三の類型に属する神社は、軍国主義的国家主義精神を鼓舞する神社であり、日本政府も、宗教ではなく愛国主義の表現形態であると繰り返し主張しているのであるから、仮に閉鎖を命じても信教の自由に抵触はしない。ただし、現実的政策としては、国家主義的神社にあっても、強制的閉鎖は逆効果を招く恐れもあるので望ましくない。公的秩序や安全保障に反しない限り、個人的信仰の対象としては公開存続を許されるものとする。」[42]
そして、神社の本質とその将来に関する決定をする前にキリスト教の宣教師に相談することを推奨している。マッカーサーはその推奨に従ってビッテルとバーンに接触した[39]。ビッテルとバーンが占領期の初期に靖国神社存続のために懇願を行ったことは事実であり、両神父は1945年(昭和20年)8月後半から10月にかけて靖国神社を含め様々な問題に関してマッカーサーに個人的な手紙を何通も送り、何度も会い、GHQのスタッフと常時連絡をとっていた[39]。しかし、靖国神社存続問題に関してはビッテルとバーンの介入の効果は取るに足らないものであり、占領期の終了間際まで靖国神社の存続は確定していなかった[39][42][43][44]。ビッテルとバーンは、靖国神社は宗教的崇拝の場ではなく愛国心を表明する市民的儀礼の場であるという(ローマ教皇庁の1936(昭和11)年の訓令に沿う)立場から請願を行ったが、最終的に靖国神社が存続を認められたのは、その宗教的本質がGHQの民間情報教育局(CIE)の宗教課に承認されたためであった[39]。信仰の自由の原則の確立を日本政府に要求したGHQは、宗教的な場である靖国神社を廃止してその原則に自ら違反することを避け、1951年(昭和26年)9月12日の指令「宗教団体使用中の国有地処分に関する件」[45]で他の宗教団体と同様の条件のもとで靖国神社の存続を認めた[39][42]。

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3つの事実に着目したい。

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・ローマ教皇庁代表であり上智大学学長でもあったブルーノ・ビッテル神父の1945年(昭和20年)年の進言
・(1937年、ローマ教皇庁福音宣教省から日本布教区域として京都府と滋賀県を指定を受けた)パトリック・バーン神父は、ビッテル神父と同様の趣旨の進言をしたこと
・ローマ教皇庁が1951年(昭和26年)年に行った、1936年(昭和11年)の「祖国に対する信者のつとめ」訓令の再確認

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実は、私個人は、聖職者割引みたいなスキームがあることを、ある国で知った。旅行代理店は、私に聞いた。「神を信じるかと」。その店で、私は、格安券が手に入る旅行代理店への道順を教えられ、数分後に立ち寄ったその店で、どこどこのご紹介と語り、通常価格7万円のところ3万円で往復の飛行機切符を手に入れたことがある。どうやら、私は布教目的で渡航する人物と扱われたようなのである。

さて、ビッテル神父所属の上智大学は、イエズス会直系、すなわちローマ教皇庁管轄。(あの山本正は上智大学出身。http://blog.goo.ne.jp/duque21/e/6b1ff67dd92413c1e8a691df8e956336


彼らが動く動機、普通は2つある。一つは寄付、一つは布教協力、どちらかである。

同時期、「スイス政府、スイスの赤十字国際委員会」が財産争奪戦で米英両政府に勝利した。靖国神社も廃社を免れた。
国内的には、同時期、葦津珍彦の奮闘があったことは確かだ。

―― 参考情報 ――――――――――

葦津珍彦
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E8%91%A6%E6%B4%A5%E7%8F%8D%E5%BD%A6

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また、同時期、1948年に聖心女子大が設置(現在の聖心会総本部はイタリア・ローマ、皇后の出身大学)、1953年国際基督教大学(キリスト教長老派、宗派的にはスイス起源?)が設置。

すなわち、米英両政府と「スイス政府、スイスの赤十字国際委員会」が繰り広げた、皇室財産の争奪戦

調整役を託された、世界にただ一人しかおられないお方は、

皇室に対し

寄付、ミッション系の大学設置による布教拡大への協力、皇太子妃の出身学校の選定という条件を示し、皇室財産保全(秘密資産化のための?)スイスの赤十字国際委員会への寄付について了承

その結果、米英両政府が折れざるを得なかった、のではないかと推定するのである。


すなわち、皇室秘密資産の一部は、その保全のため、そして國體護持のために使われた可能性を指摘するのである。

そう考えると、

(以下に書くことは、とって付けたもっともらしい屁理屈と言われるかもしれないが)

秋篠宮家の眞子様、佳子様が相次いで、国際基督教大学にご進学されたこと
秋篠宮家が、昨年、皇室としては23年ぶりに、ご夫妻でバチカンご訪問されたこと
バチカンご訪問の際、秋篠宮家の紀子様が、水色の和服・洋服(トランプ婦人、ケネデイ婦人とも就任式の服装は水色)を着用されていたこと
ローマ法王と対応された、和服姿の紀子様、うっすらと涙を浮かべられていたことが画像から確認できること(しっかり見れば気づくこと!)

など、昭和天皇崩御から30年近い月日を経ても
すべては「一つの太い『意図』」によって託され、今日に繋がっているような気配を感じる。

ここで、「日本が一九四五年八月の終戦直前、スイスの赤十字国際委員会(ICRC)に対し、皇后名で一千万フランの巨額寄付を提示」という史実を思い出したい。

平成12年に崩御された香淳皇后が、皇室の安寧を願い、「もしもの時の頼みの綱」いや「最後の手段」として、しかるべきタイミング(眞子様25歳の年?)に、何かを、しかるべきお方に、託された可能性はないのか、そう私は思いつつあるのである。


以上

参考画像
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http://headlines.yahoo.co.jp/hl?a=20160512-00000033-jij_afp-int
バチカン訪問1

http://blog.livedoor.jp/remmikki/archives/5050530.html
シスチナ礼拝堂

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2017.02.01 (Wed)

皇室秘密資産が発生した経緯について

最近、ネット界で、小和田某が皇室秘密資産の私物化を企み、半幽閉状態にあるという情報がある。
同時期、今上陛下は盛んに、生前譲位実現に向けて、側近を動員、国政に圧力をかけているように見える。

私は、生前譲位と皇室秘密資産、何らかの関係があるとみている。

小和田某がどういう意図、目的でその金に手をつけようとしたかはわからない。
借金返済?、強請られて?、出戻り慰謝料?、いろいろあるだろう。
そして、その種の企てが、今回初めてだったのかそうでないのか?
この種のトラブル、初回ではないような気がする。

では、皇室秘密資産、最初から秘匿する意図でそうなったのか?
最初から皇室関係者の私財として永遠に秘匿する目的での資産だったか、私は、判断を急ぐ必要はないように思う。

使途含めて、全貌が確定しない限り、という意味においてである。

また、日本は明治維新以降、戦争が相次ぎ、諸外国と外交上渡り合うには、それなりの秘密口座がないと、諜報戦含めて対応不可能であることは理解する。

それゆえ、皇室秘密資産については

戦前、終戦直後、現在の3つの視点で眺めようとしている。

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戦前の法律で該当した法律がどれで、どういう名義のどういう資産が該当し、どう管理運用されたのか
終戦直後の法律で該当した法律がどれで、どういう名義のどういう資産が該当し、どう管理運用されたのか
現時点の法律で該当した法律がどれで、どういう名義のどういう資産が該当し、どう管理運用されたのか

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この3つの視点で、皇室資産、皇室秘密資産、秘密資産化した経緯を整理しなくてはならないと考えるに至るのだ。

考えるに至る、という言葉の意味、調査アプローチが、ひょっとすると100%完璧でない、100%正しくないかもしれないと考えるがゆえである。

たとえば、皇室経済法なる法律が存在する。

ところが、最初の条項にて、国会の議決を経ないで、譲り渡し、譲り受け、賜与することが可能であるという趣旨の記述がある。

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http://law.e-gov.go.jp/htmldata/S22/S22HO004.html

皇室経済法
(昭和二十二年一月十六日法律第四号)

最終改正:平成一一年一二月二二日法律第一六〇号

第一条  削除
第二条  左の各号の一に該当する場合においては、その度ごとに国会の議決を経なくても、皇室に財産を譲り渡し、又は皇室が財産を譲り受け、若しくは賜与することができる。
一  相当の対価による売買等通常の私的経済行為に係る場合
二  外国交際のための儀礼上の贈答に係る場合
三  公共のためになす遺贈又は遺産の賜与に係る場合
四  前各号に掲げる場合を除く外、毎年四月一日から翌年三月三十一日までの期間内に、皇室がなす賜与又は譲受に係る財産の価額が、別に法律で定める一定価額に達するに至るまでの場合

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ここで、皇室秘密資産の存在を悪意で捉えてしまう傾向のある人は、この条文どおり皇室資産が管理されていなければ問題であると言うだろう。

だからと言って、秘密資産=国家資産ちょろまかし、みたいな感覚で眺めるのは早計。

その背景を調べなくてはいけない。
法律制定年月日を見て、何らかの政治的圧力によって、そうなったであろうと、直観するに至る。

そこで、明治憲法とGHQ憲法の条文を比較して読んでみる。

―― 参考情報 ――――――――――

日本国憲法と大日本帝国憲法条文比較
http://tamutamu2011.kuronowish.com/kennpoujyoubunnhikaku.htm

―――――――――――――――――

GHQ憲法の第8条に相当する条文は、なぜか明治憲法にはない。

GHQが何かを意図したことになる。

戸惑っていた矢先、「天皇家の経済学 あなたの知らない『天皇家』のお金の秘密」(吉田祐二)にて、興味深い記述を見つけた。

こう書いてある。

||||| ここから引用開始 |||||||||||||||||||||||||||||||||||

231頁
天皇を中心とした日本近代史の専門家である歴史家、鈴木正幸は、著書『皇室制度』のなかで、「いわゆる藤崎メモ」からの引用として、GHQの皇室財産処理に対する態度は次のようであったと記されている。左記は、日本国憲法の制定過程において、皇室財産の維持を望む宮内省の要望に対する、GHQからの回答内容だ。

232頁

連合国の間には、天皇制を全廃すべしとの強い意見がある。従って日本国民が天皇制を維持し度いと言うことならば、政治的には天皇の一切の統治機能を廃止、経済的には皇室財産を国に着せしめ、所謂「天皇財閥」を解体することによって、天皇制の存続が将来に禍根となる惧れの絶対にないことを、この憲法で明確にすることが必須の条件である。[中略]
皇室財産の問題は、主権の所在の問題と相並んで、この改正憲法の二大眼目であり、今回のような紛更は許されない。
(『皇室制度』205ページ)

||||| ここまで引用 |||||||||||||||||||||||||||||||||||||||

つまり、憲法第八条「皇室に財産を譲り渡し、又は皇室が、財産を譲り受け、若しくは賜与することは、国会の議決に基かなければならない。」は、GHQが皇室財産を可能な限り国有財産化する意図で編み出した条文だったことになる。

皇室経済法は、その細部を規定したもの。

この時点でこう解釈できる。

GHQは、可能な限り皇室財産を国有化しようとして、憲法に当該条文を明記、その時点で存在を確認された皇室財産は、憲法八条と皇室経済法の適用を受けた。

が、GHQがその時点で存在を確認できなかった皇室財産は、それ以降秘密資産となった。(解釈的に)

国民各層がそう思うかどうかは別として、皇室経済法制定時において、皇室とGHQとの間において、そういう解釈がなされていた可能性を指摘するのである。

私の解釈が正しければ、ネット界で噂される皇室秘密資産とは、

占領時のGHQが関知しない場合、皇室経済法の管理対象外の扱いのまま、

すなわち、

憲法第八条「皇室に財産を譲り渡し、又は皇室が、財産を譲り受け、若しくは賜与することは、国会の議決に基かなければならない。」の規定の対象外と解釈される状態が今日まで続いている可能性大であることを指摘せざるを得ないのである。

これは、GHQ占領期間時における「対GHQ対応上の解釈」であって、現時点において慣例的にその解釈が適用されている可能性がある。

が、それが妥当な解釈かどうか、当該財産が(解釈として)秘密資産化した経緯、目的、使途がわからない限り、言及することは避けるべきというスタンスである。

時期的な経緯などから、昭和天皇は、一言も語られることはなかったが、一部の使途が、ひょっとすると國體護持のためだった可能性もある。

そのことを説明するべく、次稿を準備している。

以上

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